物語はバニラ・プラニフォリア(ラン科バニラ属のつる性植物)から始まる。世界に3万5千種ある蘭の中で、食用果実を実らせる唯一の存在。原産はメキシコ。19世紀、赤道沿いに運ばれ、やがてマダガスカルへ渡った。今や世界最大の産地である。ドイツの香料会社シムライズは島の北東、サヴァ地方に拠点を構える。需要が急増する中、品質と資源保全を両立させるべく、約7千人の農家が厳しい規格に沿って栽培。3〜4年でつるが茂り、花を咲かせる。両性花は19世紀に奴隷の少年が考案した方法で、ひとつずつ手作業で受粉される。9か月後、緑のさやが収穫を迎える。600の花からおよそ6kgのバニラが得られる。
甘美な芳香と繊細なニュアンスで愛されるバニラ。料理の香味料として、そして香水のアブソリュートとして。この愛すべきスパイスは、インド洋に浮かぶマダガスカル島で栽培・加工される。さやから香水瓶へ──その道のりを追う。
バニラ──マダガスカルの黒い黄金
文:セシル・クルエ 写真:© Symrise
次は発酵と乾燥。摘みたてのさやを60℃の湯で1分間ブランチングし、細胞構造を壊してバニリンを生成。木箱に入れ綿布で覆い、3日間“発汗”させる。その後、10〜21日間陰干しし、柔軟性や水分量で選別・束ねられる。熟成と格付けを経て、ようやく抽出の準備が整う。「最終チェックを行うのは年配の熟練者。束に鼻を埋め、言葉では説明できない直感で質を見極める」と調香師ピエール・グエロスは語る。
2014年、シムライズは環境配慮型の溶剤抽出工場を島に設立。早成樹の薪を使い、エタノールを再利用する。異なる農園のさやを混ぜ粉砕し、黒糖のような甘みと木質・タバコ・レザーの側面を併せ持つアブソリュートへ。アルコールで希釈・蒸留し、甘くもアニマリックな深みを残す。調香師の実験室へ届く頃、その香りは数え切れぬ手の温もりを宿している。
工程:バニラ加工の5工程
1. 受粉:雌しべと雄しべを手作業で結びつけ、開花初日の朝に行う。
2. 収穫:受粉から9か月後、9〜12月に緑色のまま熟したさやを摘む。
3. 乾燥:湯通し・発酵後、陰干し。日光は一日1〜2時間のみ。
4. 選別:大きさと質で束ね、熟成させながら香りを確認。
5. 抽出:粉砕しアルコールと混合、蒸留。濃度で3倍・30倍と表示。
| ブランド | Tom Ford |
| 調香師 | Olivier Gillotin |
| 発売年 | 2007年 |
植民地から紳士クラブへ跳躍するように、トンカビーンズとカカオを合わせたクリーミーなバニラに、タバコリーフの青みが気品を添える。
| ブランド | Guerlain |
| 調香師 | Jean-Paul Guerlain |
| 発売年 | 2007年 |
ラム酒とスパイスに漬け込んだかのような、濃く豊かなバニラが主役。豪奢で包み込むような甘さ。
| ブランド | Diptyque |
| 調香師 | Fabrice Pellegrin |
| 発売年 | 2010年 |
ピンクペッパーやカルダモンの刺激から、煙のようなインセンスを経て、甘く温かなバニラへ。
| ブランド | Mona di Orio |
| 調香師 | Mona di Orio |
| 発売年 | 2011年 |
オレンジの皮やプチグレンのほろ苦さから、リコリスが温めるバニラの生々しい力強さへ。
| ブランド | Cartier |
| 調香師 | Mathilde Laurent |
| 発売年 | 2013年 |
百合の清らかさを背景に、さやと種子そのものの香りを感じるバニラ。甘さを控えたソーラーでパウダリーな仕立て。
THE FANTASY PERFUMERY
カート・コバーン
香水なんて気取ってる、と敬遠するあなたも、匂いには魅せられている。グランジの精神を映す香り――バイキリアンの「セイクレッド ウッド」。洞窟のように深く、クミンの動物的な温もりが漂うサンダルウッド。古代の祭壇を思わせる深い木の苦味、ほのかなカビの気配、乾いた煙の線香。それは清潔の概念を軽やかに裏切る。
| ブランド | By Kilian |
| 調香師 | Calice Becker |
| 発売年 | 2014年 |
マチルダ
初めての香水ね。何を選んでいいかわからない?バニラ?花?果物?それとも…キャンディ。では、ロリータ・レンピカの「ロー エン ブラン」はいかが。砂糖菓子のドラジェのような甘さ、アーモンドの芯を噛みしめる喜び。スミレやピンクのフルーツのはじける香り、リコリスのねっとり感、ふわふわの綿菓子。けれど、これは少女だけの香りではない。イリスやトンカビーンズが、粉雪のように官能を添える。ベチバーとムスクが芯を与え、軽やかさを失わないまま挑発的な強さを宿す。マリリンのように、甘く透明な泡に包まれる――安心感と魅惑を同時に纏って。
| ブランド | Lolita Lempicka |
| 調香師 | Annick Menardo |
| 発売年 | 2012年 |