ADDICTIVE SUBSTANCES

By Sarah Bouasse

依存物質としての香り? およびその条件について

サラ・ブアース  

ブランドの広告やメディアでは「アディクション(中毒・依存症)」という語がことあるごとに 使われている。その言葉をみだりに使用し乱用している、という印象が拭いきれないが、一方で 消費者たちが愛用しまさに依存せずにはいられない、そんな香水を売り出したいというブランド 各社のほぼ強迫観念のごとき欲望をよく表していると言えよう。その消費者からの支持を得るた めに、ブランドは甘さに(それも過剰すぎるほどの甘ったるさに)頼ることになる。

例えばこんな風に感じることはないだろうか? 香水への愛着のあまり、それなしに出かけることなどできない、つけるのを忘れたときなど、自分が裸でいるような気がしてそわそわして落ち着かない……。だが冷静になって考えてみれば、今日よく言われているように、ある香りやアコードや成分について、それらに依存性があると、そんなことが果たして大真面目に言えるものだろうか? アメリカの政府機関、国立薬物乱用研究所(National Institute on Drug Abuse)によれば、「依存症とは脳の慢性的・再発性の疾患のひとつを指し、その特徴は有害な結果になると知りながらも、強迫的に薬物を求め使用せざるを得なくなることにある」。この定義を引用したうえでフランスの情報・予防サイトのdrogues.gouv.fr.は物質的使用をともなわない依存症も存在することを強調し、なかでも「ギャンブル(偶発性に左右され金銭の賭博をともなうゲーム)依存症だけが、国際的な診断分類(『精神障害の診断と統計マニュアル』第5版)に照らし合わせたときの行動依存症として、臨床的に認知されている」とした。当然ながら、香水をかいでうっとりすることついてはそこにはいかなる言及も見られない。

「香水が切れたせいで夜間救急にかつぎこまれたという話はあまり聞いたことがありません。幸いなことにね!」、調合会社IFF(インターナショナル・フレイバー・アンド・フレグランス)で消費者科学部門ディレクターを務めるアルノー・モンテはそう冗談混じりに語る。あまりというか、そんなこと一度も起こったことはないと言いきってしまっても問題はあるまい。なぜなら科学的には、嗅覚に関する依存症は存在するはずがないからである。「あくまで都市伝説にすぎません。新聞を売るためや、マーケターが好んで使う手です」、そうばっさりと切って捨てるのはCNRS(フランス国立科学研究センター)神経科学研究部門ディレクターを務め、同研究所嗅覚研究グループ員も兼任するイラック・グールデンだ。「科学的には何の根拠もない話です。なぜかって、ごく簡単なことです。アルコール、ニコチン、THC(大麻の主要有効成分だ)、コカイン、ヘロインといったものが引き起こすような作用を、匂いが引き起こすことはないからです」。 このような混同が起こってしまうのは、匂いというものが人間の脳内において上記のような強い依存性物質と同じ神経細胞群に働きかけるからなのかもしれない。よく知られる、報酬回路を構成する神経細胞群だ。「報酬回路はすべての哺乳類が有している基本的なシステムで、何か新しいもの、新規のものに対して強い反応を示します。ここでポイントとなってくるのは、何か好ましい経験、それもこれまでそうとは思わなかった予想外にポジティブな価値を持った経験が感知されたとき、このシステムが反応し、ドーパミンと呼ばれる神経伝達物質を送り出すということです。そしてこのドーパミンの存在こそがその新しい、楽しくなる行為を、すなわち私たちを良い状態へと導いてくれる行為をもう一度試したいと欲することへと私たちを仕向けるのです」、そのようにイラック・グールデンは解説する。ただ、匂いをかいだことによって分泌されるドーパミンの量とコカインによって引き起こされるそれとは、比較にならないほど大きな差がある。

また両者が体内をたどる経路も異なる。匂いが嗅覚系に働きかけ、その嗅覚系が報酬回路に感覚信号を送りその結果生理的に心地よい反応が引き起こされるという過程をたどる一方で、コカインは血液を介して直接ニューロンに作用することでドーパミンの放出量を増加させる。「コカインは物理的にシナプスの内部に入りこむということです。ですが香水はそうではありません。嗅粘膜には血管が密集しているため血液内に微量の匂い成分の痕跡が見つかることこそあるかもしれませんが、脳内にまで入りこむようなことはまずありません」。したがってその匂いが、ある人にとっていかに強力な喜びを引き起こすようなものだったとしても、それがシナプスの活動に働きかけ、依存症や禁断症状、衝動的性向、病的な行動などといった、そうした本物の依存症に見られるような諸症状を引き起こすに足るほどの改変をつけ加える力はないということである。

ひとつの匂いがある人のなかにどれほど強い喜びを抱かせたとしても、そこから依存症を引き起こすことはできないだろう。

つければつけるほど好きになる

ではとどのつまりこの「依存・中毒」という言葉が香水業界において使われるとき、それは正確にはいったい何を意味しているのだろうか? 調合会社各社に取材を申しこんだところ、あるはっきりとした特定の現象を指しているということで意見が一致した。すなわち消費者たちが言うところの、「つければつけるほど、その香水のことが好きになる」という現象だ。実を言えばこの表現は、今日新しいフレグランスを開発するうえでほぼ必須事項となっている消費者テストにおいてよく使用される文句から借用したものである。解釈のしかた次第ではこの「アディクション」という語も、否定的意味ではなく、むしろ「強い愛着」という好意的な意味を持つようにもなる。マーケティング部門やコンシューマー・インサイト部門では、その否定的意味ゆえ誤解の恐れがあることから「アディクション」の語の使用をあえて避ける傾向にあると、そう説明してくれた担当者もいた。例えばジボダンではその語の代わりに「モーリッシュネス(moreishness)」という言葉が好んで使われる。「ある物を指すとき、それがもっと欲しくなる、という意味を含んだ英語です」。またIFFでは「何度もそこへ戻っていきたくなるような、あの抑えがたい欲求」という感覚を理解するための社内プログラムが立ち上げられたのだが、そのプログラム名は「クレイヴィング」(「強い欲求や渇望、またその欲望がおさえられない様」を意味する語である)と名づけられた。

たとえどの語彙が使われようと最終的に意味するところが「ある香水に愛着を持つこと」ということには変わりはなく、まさにその永続的に続く愛着を創造することが今日の香水業界全体の課題となっているのである。「毎年2,500種類以上もの香水が新たに発売されるなかで、消費者たちもそのあまりの選択肢の多さに、あっちを使ってみては今度はこっちを試す、というような状態が近年ますます増えてきています。特にミレニアル世代にその傾向が顕著で、『もう20年近く同じ香水を使っているんだ』という話なんて近ごろではとんと聞きません。どのブランドも顧客を定着させることに血眼になっており、まさに『アディクション』こそがそのゴールとなっているのです」とそうコメントするのはジボダンの高級フレグランス・マーケティングディレクター、アルノー・グゲンビュールだ。事実、業界はその「長く続く」成功を夢見ているわけだが、そうした成功を博すことのできるケースは今や極めて例外的なものとなっている。次なる大ヒット商品を生み出すという考えに取り憑かれた調合会社各社は、成功の仕組みそのものを解析し、依存状態を意図的に引き起こすことができないかということに関心を寄せ始めている。ときにプロジェクト全体がその問題を探るためにあてられるほどだ。「香水が好きな人がいたとしましょう。彼は香水が好きだ。それゆえ彼は香水を買う。そして彼はその買った香水を自分につける。つけるたびにどんどんその香水が好きになり、もっとその香水が欲しくなる。ゆえに彼は再びその香水を買う。つまりわれわれが理解しようと腐心しているのはそのような好循環のメカニズムなのです」と、アルノー・モンテはその試みの意図について解説する。

IFFやその競合他社が行うこの研究は消費者テストと密接に結びついている。消費者テストは2000年代始めごろから実施されるようになったという経緯がある。開発中の香水の市場での購入可能性を予測するために行われるもので、一般向けの香水を発売するにあたってはほぼ避けては通れぬほどの不可欠なステップとなっている。上記のような問題が意識されるようになって以降、消費者テスト参加者に配られる質問表のなかには対象香水への全体的な評価に関する従来の質問と並んで、その香水がどれほど「中毒性」があると思うか? ということをたずねるために特別にデザインされたいくつかの質問事項が盛りこまれるようになった。それらの質問は回答者に、先ほど挙げた表現「つければつけるほど、この香水のことが好きになる」というこの文句について、あなたはどれほど同意・共感されますか、ということを答えさせるためのものなのであった。

数値化される中毒性

これと並行して、調合会社各社は消費者たちの意見に重点を置く従来の方法論を超えて、科学的な裏づけとともに自社の製品を評価、販売するという新たな手法に挑むようになる。2015年よりシムライズはコンピュータープログラム「ジェニシス(Gen-Isys)」を稼働し、消費者たちが香りをどのように感じているのかということについての包括的なビジョンを顧客に向けて提供している。「ひとつのセッションごとにテスターに香りをかいでもらい、その脳の反応を脳波測定機を使って観察します」と同社・消費者および市場インサイト部門責任者のパトリシア・アーノスティはその使用法を解説する。「そうすることでアルゴリズムが、その香りが持つ中毒性の傾向を計算する準備が整うわけです」。しかし心地よい香りを初めて発見したときに感じられる単なる一回性の喜びと、その後も何度も繰り返しその香りをかぎたくなるほどの強い効果とを果たしてどのように区別できるというのだろうか。「テスターが機械のなかに座っている様子を思い浮かべてみてください」とパトリシア・アーノスティは続ける。「テスターにムイエットが差し出され、その香りがかがれると脳が活性化し、その活動が記録されます。再び同じ香りをテスターがかいだとき、脳がより活発に反応すればその香りが好きだということになり、単に既知の香りだと思っただけならば反応は弱くなります。そして重要なのは3度目で、ここでの反応が決定的なものとなります。すなわち注意が著しく低下するか、または注意の水準がしばらく維持された後、その下落分を突き抜けるかのように高くなったとき、それは被験者がその香りをもっと欲しているということを意味し、ひいてはその香りが中毒性を持っていると判断されるのです」。 このような新技術の導入はクリエーションそのものを刷新したのはもちろんのこと、素材の選定や適切な香料の組み合わせにも影響を与えることとなった。2018年の世界香水会議(World Perfumery Congress)ではジボダンが自社のアロマティストと調香師が共同で開発したアコードのシリーズを発表し、以後それが同社の調香パレットに統合されることとなった。「ディライト」と命名されたそのコレクションは、ベーコン、メープルシロップ、コーヒーなどといった各種食品から着想を得た非常にリアルな香料ベースのシリーズである。非言語コミュニケーションを専門とする記号学者との協力のもとに開発され、そのなかで記号学者は、パネルに参加した消費者たちがこれらの香りをかいだときの身体反応や表情を観察して、彼らが感じた喜びを証明するという役割を演じた。

一方IFFは神経科学に焦点を当て、磁気共鳴画像(MRI)を用いて調香師が利用している原材料のカタログを今一度分析し、洗い直す。「私たちは先ほどご紹介した『クレイヴィング』の概念を数値化することで、私たちが素材として持っている成分の効果やそれらを組み合わせたときの相乗効果を測定できるようになりました。そうしたデータは調香師たちに、いったいどのような成分を使えば消費者たちの内にあの抗しがたい欲望を呼び起こすことができるのかということに

ついてのヒントを提示します」。アルノー・モンテは、そのようなデータによる干渉が決して調香師自身の選択の自由をおびやかすものではなく、あくまでも優先権は彼ら自身にあるのだということを強調する。「AIが提示した数ある成分のなかから実際使うものを選び、正しい配合を決定し、それによって創造性を発揮するのは彼ら調香師自身に他なりません。料理で例えると分かりやすいかもしれません。パスタ、クリーム、トリュフといった材料を持ってきて、ただそれらを混ぜるだけで三つ星の料理ができるのなら、きっと誰もがそうするでしょう!」

プロフィール・モンタン

まるで奇跡であるかのようなそんな万能なレシピこそ存在しないものの、調合会社は各社とも香水の発売にともなう不確実性やリスクをでき得る限り減らすべく努力を重ねている。日々発売され続ける数多くの商品の、そのほとんどが大きな成功をおさめることもなく棚の奥でくすぶっているという現実があるなかで、ブランド各社は確かな科学的手法によって裏づけられ、測定・計量・数値化され、その結果依存性があると判断された、そういった商品だけを売り出す方向へと舵を切りつつある。だがそのようなアプローチを取り続けていては、消費者と商品とを結びつけている現実的なつながりというか、両者の接点のようなものがいつの日か失われてはしまわないだろうか? そうした懸念点こそがフィルメニッヒ・消費者インサイト部門ディレクターのファビアン・クレニューが抱いていた危惧であり、というのも先端テクノロジーを応用して実施される評価は、ときに香水の「実際上の使用手順や要件からは大きく逸脱したもの」となりがちであると、そうクレニューは嘆く。そのようなわけで彼にとって王道の方法は、いまだどのメゾンにおいても開発プロセスに組みこまれている昔ながらの「スニフ・アンド・ユーズ・テスト」であり続けているというわけだ。「テストは、対象者が最初にその香水をお店で見つけたときの状況を再現したうえでムイエットに染みこませた香りをかいでもらうところから始まり、続く質疑応答によってその香水のひとまずの購買ポテンシャルが評価されます。その後対象者はその商品を持ち帰り、実際の暮らしのなかで一定の期間使用してもらいます。ブランドによって異なりますが、1週間から1ヶ月といったところでしょうか。そして最終段階として、始めにしたのと同じ質問をし、それに対する対象者の回答が比較されることによって、その香水のパフォーマンスが安定的なものであるのか、それともだんだん低下していくものであるのか、あるいは上昇していくものなのか、といったことが判断されるというわけです。ちなみに、上昇していく香水はまれです」。 上記のような、つければつけるほどその魅力が増していくような香水を、業界用語で「上昇プロファイル(profils montants)」と呼ぶ(訳者注:こうした文脈においてはあまり訳されてこなかった表現であるように思われるが、より一般的な語義としては本来「(人材育成分野における)上昇株・成長株」あるいは「(株価指標などの)上昇傾向」などと訳される言葉である。始めは地味で目立たずじょじょにその頭角を表していく、というそのニュアンスは本文の文脈とも合致しているが、ここでは”専門用語”としての異質性・硬質性を表すためにこのような一見見慣れぬ訳語をあてている)。「サンタル33」がその一例だ。2011年、独立系ブランドのル・ラボよりテストなしで発売されたこの香水はまたたく間に大ベストセラーとなり、2015年には『ニューヨーク・タイムズ』が、「ニューヨークの地下鉄、ロンドンのバー、パリのカフェ、ロサンゼルスの浜辺」といったどのような場所にもこの香水の香りが存在し見出される様を強調した。発売後に事後的に行われた消費者テストでは、始めこそ「何だか微妙」といった程度の評価であったが、つけて2週目以降はみるみるうちにその評価は上昇していった。したがってこのような伸びしろこそがベストセラーの条件のひとつと言えるのではないだろうか。

こうした流れのなかで思い出されるのは、やはり「最初の依存性香水」として成功を博した「エンジェル」であろう。「エンジェル」もまた発売前のテストを受けてはおらず、導線に着火した時限爆弾のようにじょじょにその人気に火がついた。この青い星の形をした香水が世界的大ヒット作になるにはいく年もの時間を要したわけで、今やグルマン香水の先駆けと言われるこの香水ですら、1992年の発売当初は「誰ひとりとして見向きもしない」珍奇な商品でしかなかったのだった。「発売して一年のあいだはそのような感じでした」、とそう回想するのは当時ボーテ・プレステージ・インターナショナルを運営していたシャンタル・ルースだ(彼女の業績は同社においてジャン・ポール・ゴルチエの「ル・マル」やイッセイ・ミヤケの「ロード・イッセイ」を制作したことで知られている)。当時彼女は同業者として、そして友人として、ティエリー・ミュグレーの調香師を務めていたヴェラ・ストルビーの開発したこの「エンジェル」が市場へと投入される様子を注意深く見守っていた。「売り子たちでさえ、これを売り切るのは困難だと考えていたはずです。

『エンジェル』を成功へと導いたのは他ならぬ消費者自身だったのです。ただ消費者たちだけが、その香水のなかに独創的で、個性的で、他とはちがう何かを見出していたのです」。即座に高いセールスが求められる今日の状況に照らし合わせれば、そのつつましすぎるスタートは期待を裏切るものと判断されたことだろう。仮に「エンジェル」が今の時代にリリースされていたとしたら、きっと2年ともたずに販売終了となっていたにちがいない。しかし1990年代始めごろにはまだ、一般向け香水には真価を発揮するまでに比較的ゆったりとした猶予が与えられていた。ティエリー・ミュグレーの香水第一作である「エンジェル」もまたその恩恵を存分に受け、かくして2000年代始めには市場を席巻することとなったのであった。

新技術の導入はクリエーションを刷新するとともに、素材の選定にも影響を与えた。

いくつかの共通点

今日では香水に関する膨大なデータが蓄積されているわけであるが、実際のところ、つける人を虜にしてしまうような中毒性を持った香水には何か共通点のようなものはあるのだろうか。すべての謎を解き明かしてしまうような、そのような完全なる答えこそ取材先からは得られなかったものの、消費者による香水の評価を決定づけているものとして、次の2つの特徴がこぞって口にされるのを耳にした。ひとつ目は技術的問題に属することだ。すなわち、香りの複雑さである。香りの秘密が一度かいだだけで看破されないように、香水にはじゅうぶんな複合性を持たせる必要がある。その点にこそ、ランコム「ラヴィ・エ・ベル」やパコ・ラバンヌ「インビクタス」といった、これら「上昇プロファイル」を作るための秘訣が隠されているのだろう。ふたつ目の特徴は、すでに知っているものを好む傾向があるという、そうした人間の嗅覚的判断に特有の性質に関するものである。すなわち私たちが最も魅了される可能性が高い香りというのは、どこかなじみ深いところが感じられる、そんなノートであるということだ。「依存状態は必然的に、すでに一度出会っているものと結びつくことになります。つまり依存状態が引き起こされるためには、すでにどこかで一度、その物質と親しんでいる必要があるのです」とアルノー・グゲンビュールは解説する。「そのため中毒性のあるフラグランスを作り出すためには、脳内における既存の回路を活性化させるような、そんな成分や物質を組みこむ必要が出てくるでしょう」。 とはいえ、私たちひとりひとりの持つ嗅覚の履歴は極めて個人的なものである。それゆえ香水業界ではここ20年来、できる限り多くの人々によって共有されていると考えられる香りが重点的に使用されるようになったのであった。果たして、それは甘い香りであった。あらゆる文化に共通する香りであるゆえ、それをかげば不可避的に人々の内に心地よい記憶が呼び覚まされる。私たちが幼少期より慣れ親しんできたバニリンの香り、プラリネや綿菓子の匂いを持つマルトール、砂糖菓子やヨーグルト、およびその他の飲料に風味づけをするフルーティなノート各種、そのような香り成分に以後香水業界は注目するようになったのであった。キャラメルやキャンディー、チョコレートといったお菓子類は私たちのなかのほぼもれなく全員が知らず知らずのうちにかいだことのある香り、再認できる香りを思い起こさせる。

「エンジェル」を作ったティエリー・ミュグレーのチームは、デザイナー、ミュグレー本人の遊園地での思い出に触発されたというその香水を発売したとき、その香水の登場によって私たちが親しみのある匂いに惹かれる傾向があるということが明らかにされるだろうと、果たして分かっていたのだろうか? もちろんそんなはずはない。しかし現在私たちが直面している問いはむしろ、私たちはそのような匂いしか好きになることができないのだろうか? ということなのではないか。というのもまさに近代香水は、これまで誰もかいだことのない香りによってあれほど大きな成功を博してきたではないか?

香水業界はいまだ大衆に媚びを売ることをやめる決心がついていないようだ。まさにそこにこそこの業界のアキレス伳があるというのに。

既定路線から逸脱すること

過去5年間に発売された女性用香水の実に3分の1が甘いグルマン系香水に分類されるという事実を考えると、業界がその甘い香りにのめりこむあまりそのなかで硬直し身動きが取れなくなってしまっている、と思われるのも無理なからぬことであろう。もっとも業界自体もそのことはじゅうぶん承知していて、取材先の人々も甘い材質への寛容度が爆発的にはねあがったことにより歯止めが効かなくなり、ついには「エンジェル」が築き上げたその路線から、「エンジェル」そのものを引きずり下ろしてしまうにいたった現状を危惧している。ゆっくりとではあるが着実に、業界の関係者たちは代替案の模索を続けている。しかし親しみを覚える匂いに秘められた感情の可能性から脱却することに関してはまだまだおよび腰であると見え、その代わりとして野菜やナッツやドライフルーツなど、甘さとは異なる他のフレーバーノートに挑戦する商品が増えてきている。より最近の例では新たなる女性向けの名香、ランコムの「イドル」が「クリーンさ、清潔さ」を前面に押し出し、これを「次なる依存先」として掲げたのだった。その構成の中心には洗剤などのホームケア用品から借用したムスクのアコードがあり、そして(食品系のアロマからはほぼ出し尽くされた感のある)グルマン系の香りをいかにして、ほぼすべての家庭に存在する別の普遍的香りに置き換えることができるのかという発想があった。

こうした変化はある意味では歓迎すべきものかもしれないが、しかし業界がいまだ大衆に迎合することをやめる決心がついていないことへのまたとない証左ともなっている。まさにそこにこそこの業界のアキレス伳があるというのに。「私たちはヒット商品の共通項を追い求めることにいいささか固執しすぎてしまっています」と、そうファビアン・クレニューも認めている。「それによって業界全体の創造性が圴一にならされ、その結果似たような商品で市場が飽和してしまっているのです。それに私たちひとりひとりの異なる歴史に紐づけられた嗅覚の期待はかくも多様だというのに、それはまだじゅうぶんに掘り下げられていないように感じます。どこか懐かしさを感じさせる、甘ったるい香り。そのような依存性があるとされる香りがある一方で、よりフレッシュで新鮮な香りを好む消費者たちも、少数派ではありますが確かに存在しているのです。ですがそのような新鮮さ、フレッシュさのなかにも依存性を作り出すことが果たしてできるのでしょうか? それはまだ定かではありません」。

その答えを見つけるためには、業界は舗装された安全な既定路線からあえてはずれる勇気を示さねばならないだろう。なぜならこのテーマに通暁するシャンタル・ルースもそう信じるように、成功を作り出す真のレシピとはまさにリスクを恐れぬことだからである。「失敗を恐れず大胆になることです」とそう彼女は請け負う。「そして意外に思われるかもしれませんが、決してテストを行なってはいけません。テストを重ね、ある人がこの香りは強すぎるとか弱すぎるとかいう考えを聞き入れ続ければ、結果としてその香りが空へと羽ばたくための翼を削いでしまうことになりかねないからです」。このアドバイスに従おうとするものには、依存を作り出したいという欲望そのものと決別することが求められるだろう。かえってそうしたほうが依存を作り出すチャンスは転がりこんでくるものではなかろうか。さあ、そうして失われる依存への禁断症状が長く続かないことを祈ろうではないか。

翻訳:藤原寛明

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