AROUND THE WORLD

Illustrations: Laurent Cilluffo

『アラウンド・ザ・ワールド』

香水は世界中から集められたさまざまな素材をもとに
作られるわけであるが、
香水産業もまたその創成期から
国際的かつグローバルな産業として発展をとげてきた。
しかしながらそのような国際性・グローバル性とは裏腹に、
私たちの嗅覚的好みを形成している文化的コードは
依然としてただ私たち個々人の日常生活のみを反映し、
身近な環境のなかにとどまったままであると言えるだろう。

フランスは今なおラグジュアリーの中心なのだろうか? 
香水の聖地、グラースで作られた商品が
いかにして中国で売られているのか? 
調香師が異国の地で香水作りの技術を学ぶということは
可能なのだろうか? 
そして境界が曖昧になりつつあるこの世界において、
普遍性と特異性とを合わせ持つ香りとはいかなるものなのか?

By Mathilde Cocoual

香りを運ぶ道

マチルド・コクアル

古代より人は、匂いを発する素材を獲得するために実にさまざまな行いに手を染めてきた。その方法は交易であったり、ときに武力に訴えることさえあったわけであるが、その結果として手に入れられた香料素材は宗教儀式や治療薬に必要となるものであった。そしてもちろん後に、それらは香水のために使われることとなる。

「いくつもの時代の果てに、地球上に散りばめられた人々が互いに出会うようになるまでには実に長い歳月を要したのであった。そしてその地上の方々へと散らばったもうひとりの自分たちを見出し始めたのは、宣教師たちよりも、むしろ商人たちのほうが先であった。[...]特筆すべきなのは、スズやシルクを運ぶための道よりも、スパイスや香を運ぶ道のほうが先にあったということだ。というのもこれらは数ある贅沢な品々のなかでも、神に捧げられるべきものであったからだ」。1931年、「世界五大陸におけるフランス香水」と題されたこの論考のなかで、調香師にして歴史学にも造詣の深いガブリエル・マズイエは、歴史上初の交易対象である匂い物質の貿易について論じている。

実際上記の通り、人類はそのごく初期においては神々と死者を崇め奉るべく、長大な距離を踏破しながら香りのエッセンスを追い求めてきたのであった。そして香りを使用する目的に関しても、治療をするため、誘惑をするため、そして他者との差別化を図るため、といったように時代の流れとともに次第に変化していったのであった。古代から中世にかけて、香料とその原料である植物は絶えざる探求の対象であった。それに続く時代においては、ヨーロッパ人によるアメリカ、アジア、アフリカ、オセアニアへの探検および植民地化が幾度かに分けられ集中的に行われた結果、チョコレート、タバコ、バニラ、パチョリ、クローブ、イランイラン、アニス、ローズウッドなどなど、それまで未知だったさまざまな資源がその冒険の成果としてもたらされたのであった。そしてそれらの多くは香りのエッセンスとして順次、調香師たちのパレットへと取り入れられていったのである。こうした原材料の供給ネットワークは長い歴史を持つわけであるが、環境の変動や、各国によって実施される開放・閉鎖政策、および各国間の経済的・社会的関係性の変化によって休む間もなく形成されては解体されていく、といったプロセスを何度も繰り返し続けてきたのであった。

最も歴史ある匂い物質として、特に重要なのが乳香(l'encens)と没薬(la myrrhe「ミルラ」とも)である。というのもこのふたつは神聖なる祭祀において必ず用いられていたからだ。そしてなお興味深いのは、これらが使用されていた文明において、その香りの原料となる木々が領土内に存在していなかったということなのだ。つまり古代エジプト人、そしてメソポタミア人、さらにはユダヤ人、ギリシャ人、ローマ人たちも、これらを調達するため何千キロと旅をしたということになる。実際、乳香の木であるボスウェリア・サクラと没薬の木であるコンミフォラ・ミルラの地理的分布は、(イエメンの)ハドラマウト、(現在のオマーンにあたる)ドファール、そして「プント国」と呼ばれる、ソマリア、エルトリア、あるいはスーダンの一部に相当したとされる地域に限定されていた。

古代エジプトにおいて乳香が使用されたとされる最初の記録は紀元前2400年にさかのぼる。この時代から紀元前十三世紀ごろまでは乳香と没薬は軍事遠征の際に持ち帰られ、エジプトはじょじょにその勢力をのばしていき、ついにはパレスチナまでその影響力を拡大した。プント国への遠征として最も有名なのは紀元前十五世紀、女王ハトシェプストが率いたものであろう。女王は遠征から戻るとデイル・エルバハリの神殿のファサードに、このミルラの木の絵をレリーフとして刻ませたという。貿易に関してはもっぱら海上で行われていたが、紀元前十三世紀になるとエジプト人たちにより新たな交易ルートが開拓された。アラビアから砂漠を越え地中海沿岸へといたるルート、さらにはインド、メソポタミア、地中海を結ぶルートが開かれ、こうした交易路を通じて、綿、油、香辛料などといった製品が、地中海の珊瑚やバルト海の琥珀といったものと交換された。

キャラバンとシルクロード

クレタ文明とギリシャ帝国の飛躍的な発展により、香りの原材料の交易はさらなる進展を見ることとなった。そしてその後この交易をさらに押し進めることになるのが、かのアレクサンドロス大王なのであった。紀元前四世紀半ばのこの時代において、アレクサンドロス大王はシルクロードの経済的重要性を理解していた最初のヨーロッパ人であった。王の野心はアジアにまでおよび、そして東方遠征においては、香り豊かな花々の植生が今も神話的に言い伝えられている、あの空中庭園バビロンを発見したとされた。こうして王は新たなる香りの世界を持ち帰るとともに、後にシルクロード沿いに果てしなく築かれることになる巨大な商業的コネクションを携えて、祖国ギリシャへと舞い戻ることとなる。この西から東へと向かう大交易路はじょじょにその全貌が形成されていき、ついには東洋と西洋、すなわち中国における帝国と地中海とを結ぶ巨大なインターフェースと化した。より正確には枝分かれした分岐ルートが何本も存在し、洪水や降雪などの影響によって閉ざされたり再開されたりしたため、全体的な路線図が定まることはなかった。アレクサンドロス大王はごく早い段階からこの東方貿易がもたらす可能性を見抜いており、キャラバンの自由な移動を確保するために、カスピ海からアラル海へといたる領土を有する中央アジアの民、スキタイ人と協定を結んでいた。

そうした流れのなかで、紀元前三世紀にはアレクサンドリアは地中海地域におけるスパイスおよび香料の交易中心都市となり、その貿易量も増加の一途をたどった。紀元前二世紀には漢王朝(紀元前206年~紀元後220年)が中国統一を果たし、期を同じくしてローマ帝国もその勢力をじょじょに地中海沿岸に向けのばし始めると、交易はさらに活発化した。紀元後四世紀までは(かつてはビザンチウム、そして現在はイスタンブールの名で知られる)コンスタンティノープルがこれら貴重で高価な品々を流通させる中枢を担っていた。

権力闘争の渦中で

しかしながらそのコンスタンティノープルが1453年オスマン帝国によって占領されると、それまでアジア製品を輸入し分配していた旧来のネットワークは大きな打撃を受けることとなる。さらに紀元後七世紀から十五世紀にかけての中国の状況においては、シルクロードを通るキャラバンがイスラム勢力により襲撃されるという事態がじょじょに表面化するとともに、モンゴル帝国の台頭という脅威にも直面していた。一方そのころヨーロッパでは、キリスト教における道徳的規範の影響を受けて、香の使用が宗教的儀式か、または治療目的での処方に制限されるようになっていた。そのため香りを持つ植物は以後薬草園で生きながらえることとなり、そこではバラの垣根が周囲の視線からその存在を覆う目隠しとなり、これら貴重な香草区画を保護する役割を果たした。

このように一見すると香料およびその供給にとっては後退の時代と考えられなくはないものの、しかし当時の東洋とキリスト教影響下にあった西洋との関係を鑑みれば、一概にはそうとは言えないということが分かってくる。というのも、中世ヨーロッパに対しイスラム世界はバラの精油と蒸留の原理をもたらしたわけであるし、またイスラムは貿易も活発に行い、ダマスカスローズ(学名:ロサ・ダマスケナ)をブルガリアの果てまで普及させてみせたのだから。さらにはムスク、カンファー、アンバーグリス、そしてサンダルウッドなど、インドの商人がイエメンのアデンに立ち寄り税として納めたこれら貴重な品々を、イスラム教徒たちは西洋に向けて輸出したのであった。

だがその一方で、当時地中海を挟んで対立していた両勢力間の争いの中心となっていたのもやはりそうした香料だったのである。十字軍遠征の時代、騎士たちは遠征先の所有する財宝を多く略奪して回ったわけであるが、そのなかには金や宝石の他に、まさに香料植物が含まれていた。こうした時勢のなかで1002年にビガラディエ(ビターオレンジの木)がシチリアに移植され、1240年ごろにはガリカローズ(学名:ロサ・ガリカ)が(現在のフランス・シャンパーニュ地方にあたる)プロヴァンに持ちこまれたのだった。そして十五世紀になると今度はジャスミンが、アラビアを旅したトスカーナ公の手によってイタリアの地に入ってくる。トスカーナ公はそのかぐわしい香りを独り占めするべく自身の庭師に枝の一本たりとも外部に流出させぬよう命じたが、むろんその試みは失敗に終わった。

こうして見るように、かつては人々の交流を促進していたはずの香料植物がその希少さ、高価さゆえに次第に権力闘争のただなかへと巻きこまれていった。アメリカ、インド、インドネシアといった土地の植民地化にスペインとポルトガルが乗り出した際にも、まず始めにこの種の、すなわち原材料の支配をめぐっての闘争がきっかけとなっていた。これらは物質としてはささやかではあるが、しかし香水を作るうえでは極めて重要な地位を占めていた。アメリカからはバニラやチョコレート、インドネシアからはクローブ、アジアからは麝香鹿のムスク、そしてコーヒーやその他数多くの原材料が海路と陸路の双方より、はるかヨーロッパまで輸送された。十五世紀になると主要な海上ルートのすべてがポルトガルによって掌握された。こうして海路を支配したポルトガルは世界規模の商業ネットワークを組織し、それにより異国の物資はさらに消費されるようになったのであった。

十字軍遠征の際、騎士たちは金や宝石ばかりでなくビガラディエやガリカローズといった植物も持ち帰った。

商業的独占

十七世紀から十八世紀にかけてヨーロッパの3つの国がクローブの支配をめぐって争ったことからもうかがえるように、そうした異国で生産される原材料なり物資なりを外部からやってきた国が支配し独占するということは、その国がいかに強大であるかということを示すようになったのであった。その争いの背景は十五世紀にさかのぼり、当時ポルトガル人たちは(インドネシア東部に位置する)モルッカ諸島原産のそのクローブの木を近隣の島々にも植えることで生産量を増やし、それによってヨーロッパに向け多く供給し、そうして供給量を増加させることで価格も手ごろなものにしようと試みた。しかし1605年になるとオランダ人たちがやって来てそのポルトガル人たちをインドネシア諸島一帯から駆逐したうえで、さらにクローブの生産を諸島のうちのひとつの、アンボン島にのみ集約させ、こうして極めて需要が高いこのクローブの栽培と取引きに関して非常に厳格な規制を設けたことで、オランダはこの製品の独占的支配権を確固たるものとしたのであった。そしてさらに時が流れ1770年代、今度はイル・ド・フランス(モーリシャス島の旧称)およびブルボン島(当時のレユニオン島にあたる)総督、ピエール・ポワブルが時のフランス国王への進言として、モルッカ諸島への遠征を組織し、島からクローブの木を持ち出すよう説得した。その試みにはいくつもの激しい戦闘がともなったが、その結果としてフランスの船員たちは島から何本かの木を持ち出すことに成功し、それらはモーリシャスついでレユニオンの両島に移植されることとなる。またこのときクローブの木の他にもナツメグの木やイランイランなども島から持ち出されていた。ピエール・ポワブルはここで手に入れたクローブの木を保護し、増やすため、仏領ギアナのカイエンヌにもこれを送った。そこからクローブの栽培がドミニカ、マルティニーク、そしてアンティル諸島を構成するその他のカリブ海の島々へとじょじょに広がっていったのだった。

こうして数世紀にわたり軍事遠征や遠方との商取引きを通じてさまざまな物資が供給されてきたわけであるが、上記のような芳香植物が人間の手を介して海の上を移動するというこの現象は、現代に入ると再び加熱し始めた植民地化ブームの影響を受けさらなる活発さを見せるようになる。

十九世紀以降になるとヨーロッパの貴族階級やブルジョア階級、および世界のエリート層のあいだで香水への需要と誘引力が際限なく高まり、それによって原料供給ネットワークをめぐる歴史の新たなる1ページが開かれることとなる。香水および香料の取引きが増加したことにより必然的に原料供給のありかたも変化をこうむったというわけであるが、その他にもヨーロッパ各国における植民地政策の推進、交易および思想のグローバル化、技術革新、農業の発展、そして化学の登場、などといったさまざまな要因によって供給ネットワークの組織そのものに大きな変質が加えられることとなったのであった。

十九世紀なかばごろから、フランス・グラースの調香師たちが中心となり、イタリアやブルガリアといった諸外国との連携を通じて芳香植物の栽培地域を世界的レベルで拡大させた。さらに植民地に生産拠点を設けることにより、マグレブ、レバノン、ギニア、インドシナ、インドネシア、レユニオン、マダガスカル、コモロ諸島、タヒチ、仏領ギアナ、そして南米地域の各地でも栽培が進んだ。こうした活動の主たる目的は、ひとつには地中海沿岸地域を中心に利用可能な芳香植物の供給量を増やすことと、そしてもうひとつには乳香、ムスク、ローズウッドなど、その地域にしか分布していない固有の原材料を確保することにあった。

新たなる分布図

今挙げたような地域性の強い特定の素材をのぞけば、今や香料の多くはその原産地とは異なる地域で生産されている。例えばフィリピン原産のイランイランが初めて蒸留されたのは1873年のマニラであったが、それから一世紀がたった今、そのイランイランはマダガスカルの北西部かコモロ諸島でしか栽培されていない。南アフリカ原産のゼラニウムの花がレユニオン島とアルジェリアにも咲き、そしてタヒチ、マダガスカル、アンティル諸島においては、バニラはもはや欠かすことのできない重要な資源となっている。クローブは、マダガスカル、(ザンジバル諸島の)ペンバ島、スリランカへと渡っていった。ギニアにはポルトガルオレンジ(あるいは「スイートオレンジ」とも)が、そしてモロッコにはロサ・センティフォリア(別名「キャベツ・ローズ」)がやって来た。

このように約二世紀という時間をかけながら世界各地への適応が行われるなかで、香水産業はこれら数百種類もの芳香植物および原材料の分布図を刷新するとともに、世界中に広がる生産拠点の再配備を行った。とはいえこれらの生産拠点は互いに競い争い合うというのではなく、あくまでも補完的、あるいは相互依存的な形で、調香師のパレットを豊かにするべく素材を供給し合っている。こうした供給ネットワークが、かつては植民地支配という不平等性の上に成り立っていたことは確かである。しかし今日においては、気候、経済、社会に関する諸問題への意識が高まるとともに、環境はもちろんのこと、生産者、加工業者、消費者への配慮が広く重んじられ、こうして香りを運ぶ道は、ここにひとつの持続可能な発展モデルを実現しつつある。

翻訳:藤原寛明

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