LIVE AND LET DIE

By Sarah Bouasse

よみがえる香水

サラ・ブアース 

香水の死にもさまざまな形がある。新たな規制によってフォーミュラの変更を余儀なくされたり、流行の変化によって売れなくなったり、販売元が取り扱いを停止したりと、そのような理由から香水はいともあっさりと消費者たちの目の前から消え去ってしまう。その愛好者たちにとっては愛しい人の死にも等しい深い悲しみであろう。とはいえ案外、喪に服するその期間はそれほど長くはなかったりもするわけで……。

「あなたは私から夫を奪ったのよ!」といういかにもメロドラマめいたこの台詞は、何と実際数年前にゲランの5代目調香師ティエリー・ワッサーが顧客から投げつけられた言葉である。ありし日の夫が愛用していた香水「ダービー」がブランドのカタログから姿を消したことを知ったその女性客が、愛する人の嗅覚的記憶の手がかりが失われたことに絶望し、突発的にそう叫んだのであった。ある香水の取り扱いが終了することを、業界用語では「デリストされる」という。愛用していた商品がその言葉の通りまさに販売リストから除外されその姿を消すとき、ただひとえにその香りによってのみ支えられていた繊細な思い出の建造物が、失われたその香りとともに立ちどころに崩壊してしまうということは想像するにかたくない。その香水を好み、身につけ、知り尽くしていた人々がいる。冒頭の女性のようにその香りを愛する人と結びつけていた人々もいるだろう。そのような、人生の一時期あるいは一生の記憶としてわが胸に刻んでいた人々にとっては、その香りが消え去り失われてしまうことはそのようなかけがえのない思い出や感情へのただひとつのアクセスが絶たれてしまうことを意味するだろう。そして多くの場合それは予告なく突然に起こるものであるため、よりいっそうショッキングなものとして感じられる。消費者に対しブランドが香水のデリストをわざわざ事前に告知することはめったにない。

こんなことを言っても何の慰めにもならないだろうが、その香水を作った調香師ですらブランドからは何も知らされない。香料会社シムライズの調香師モーリス・ルーセルも、自身が手がけた「エンヴィ」(グッチ)や「ケンゾー・エア」の廃盤を知ったのは「まったくの偶然からだった」という。調香師である彼にとってもそれを知るのはつらいことであった。「その瞬間、私は自分のことをまるで枝を失った木のように感じたものでした。私がそれらの香水を作ったのはそれらに対し信念を抱いていたからに他なりません。そして私に対して人々が信頼を寄せてくれていたからでもありました。香水の開発にはストーリーがあり、そのそれぞれが私の人生の各段階に対応しています」。

モーリス・ルーセルは、彼の作った作品に対し人々がいかに愛着を抱いているかということを知るたびに深く心を動かされるような気がする。しかしその愛着が強すぎるぶん、愛着の対象が失われてしまったときに人々が受ける鮮烈なショックを目の当たりにするたびにルーセル自身も激しく動揺してしまうのであった。「失われてしまった香水を何とか手に入れようと、それを作った私の居場所を突き止めて声をかけてくる人々もいました。彼らはかつての私が作ったものによって心を動かされた人々でした。そして今、彼らはそれがないことに苦しんでいる。そのことに私の心はぎゅっと締めつけられるような気がしました」。そのような思いに引き裂かれた彼は一度だけ例外的に、彼を追ってわざわざパリにやって来た「ケンゾー・エア」の愛好家に、彼が所持している分を少しだけ分けてあげたことがある。香水とその愛好家との結びつきの強さを見事に例証しているこのエピソードは、香水は単なるアクセサリー以上のものである、ということのこれ以上ない証左となっている。それでは、いったいなぜブランドは香水を「デリスト」してしまうのだろうか?「あるときは経済的理由から。しかし、ときには純粋なる愚かさから」とそうモーリス・ルーセルはばっさりと切って捨てる。意外にも辛辣なこの回答の裏にはどのような背景があるのだろうか? もう少し詳しく探ってみる必要があるだろう。

これと同じ質問をしてみるとき、ブランドは必ずと言っていいほど議論を美的問題にすり変えて、この「デリスト」を正当化しようとする。だが実際には非常に厳格なことで知られる欧州規制や国際香料協会(IFRA: International Fragrance Association)からの勧告に応じる必要性に常に追われ続けているこの業界にあっては、これらの規制に引っかかる原料がないよう定期的にリストを見直し更新しなければならないというのが現状だ。そして規制というものは基本的には厳しくなる一方なので、使用可能な原料リストのほうも縮小の一途をたどることになる。(トンキン・ムスクを始めとした)ほぼすべての動物由来原料がリストから削除され、潜在的なリスクがあると判断された成分や分子も使用が打ち切られつつある。だがこのような自発的な除外ならともかく、ある原料が完全に禁止されたり限定的な使用しか許されなくなってしまうと製造側としてはもはや、全体的な配合を見直し再調整することでしかその商品の取り扱いを継続するすべはなくなってしまうのである。かくして調香師たちは、その禁止され欠けた原料を別の物質で補うべく奔走する。その作業はまるで、不在となった空白をその幻影で補おうとするかのようなものである。

嗅覚的アイデンティティ

だが、ティエリー・ワッサーにとってはこの手の作業はもはやお手のものだった。というのもゲランで取り扱われている香水は歴史が古く、二十世紀前半という、調香パレットの幅を狭めるような規制などほぼ皆無と言ってよかった時代に作られたものも少なくはなかった。そのため例えば「ミツコ」(1919年)でシプレのノートを表現するために使われていたオークモスが禁止された際などは彼は別の分子を使ってその香りに模した新たなアコードを作り出すとともに、ジャック・ゲランによって生み出されたオリジナルの「ミツコ」が有していた技術的な特性(密度や香りの持続性など)といったものも見事に再現してみせたのだった。かくして、彼の挑戦は無事クリアされた。とはいえまだまだ懸念点は尽きないもので……。「このように禁止された原料の効果が再現でき香水の嗅覚的特性を保持できている限り、その商品の製造は続けられます。ですがやがてはそれが中止される日というのももちろんやって来ます。例えば40年近くその香水を愛用し私なんかよりよっぽどその香りのことを知っている人たちから、もはや同じものと感じられなくなったと言われたときなどには」。より最近の例だと「ナエマ」のオードパルファムが挙げられるだろう。とにかくバラの香りが濃厚なこのパルファムは、バラのなかに自然に含まれる分子であるメチルオイゲノールの使用が禁止されたことにより再調合の必要が生じたが、代替の成分ではオリジナルの再現度の水準を満たせずに、結局は廃盤となってしまったのであった。

約110種類もの商品ラインナップを誇るゲランであればこそ(うち10%が1828年から作られているものであることを考えればなおのこと)この再調合という問題が解決すべき急務となっていることはおおいに納得されるというものだろう。ではそのような星の数ほどある香水ブランドに向け、それ以上の数の無数に異なる種類の濃縮液を供給している香料会社のほうは果たしてどうなのだろうか? ある社員によれば、実際には規制だけが廃盤の理由となることは極めてまれだという。というのもそれが売れている香水であれば、ほとんどのブランドは何とかしてその香水の死を先延ばしにしようとする。延命へのそのこだわりようはオリジナルとはまったくかけ離れたバージョンを提示することも辞さないほどで、これが現在もなお販売され続けている「クラシックな」香水の多くに当てはまるというのは何とも遺憾なことだが、だがあくまでもそれがこの業界における現状とのことだ。一方でこの規制問題から学んだ香料会社各社ではその損害を最小限に抑えるべく、規制を受けそうな原料をあらかじめ予測し先取り的に対策を講じるという方法が取られるようになっていった。先ほどと同じ社員が語ってくれたところによれば、ある原材料がIFRAの監視対象に入ると(そこから正式に禁止となるまでには数年間の猶予期間がおかれるのが慣例だ)その原材料は企業の香料パレットのなかから除外され、通称「赤い本」のなかに加えられる。そのリストに記載された原料は既存の製品には使用できるが、新しいフォーミュラには使えなくなる。こうしてじょじょに、その原料が不在となる状況にならしていくのである。

これまで使えていた成分が使えないとなると、調香師にとっては確かに悩ましいところではあろう。だが何も問題ばかりではないのではないか? 実際、このような不自由な制限こそが創作の刺激になることも少なくはなく、ときに大きなインスピレーションにさえなるのだという声も多く聞かれた。ティエリー・ワッサーはその感覚を「謎解きゲームに遭遇したような気分だ」と表現する。「そのゲームでは私は12歳で、誰かが宝物を隠すんです。そして私はその宝物のありかを暴くべく頑張るんです」。シャネル専属調香師のオリヴィエ・ポルジュもやはり同様に「制約を課されることによって興味深い結果が生まれるということは確かにあり得ることです」とコメントする。そしてぽつりと、こうもつけ加える。「でもまあ、それがなければ香水のアイデンティティが覆されるような原材料が禁止されることなんて、そうそうあることではないと思いますがね」。だがこうしたひとつの香水の絶滅を救おうとする努力が、その努力を諦め消失を認めたときに生じる金銭的損失よりも高くついてしまうとしたら、どうだろう?

「ここで思い浮かぶのが、セフォラ効果とでも呼ぶべき現象です。お客さんが店頭で『これは良い香りかしら?』と聞いたとしましょう。それに対し店員は『はい、だって新商品ですから』と答えるんです」

香水たちの椅子取りゲーム

ある香水が経済的要因から廃止に追いやられることは当然あり得ることである。ただどのブランドや企業グループもその決断へいたるまでの商業的、財務的戦略には言及したがらないものである。なのでここでは香水業界で知られる常識と、それプラス、匿名を条件に取材を引き受けてくれた何名かの情報提供者たちの助けを借りて、ひとつの香水がそのブランドにとって「お荷物」となるのはどのような状況においてなのかということを詳しく探ってみることにしよう。

 当然のことながら、商品は製造コストよりも高い収益を生み出さなければならない。つまり何ごとにおいても商売をするにはまず何よりも利益をあげる必要があるということで、これだけなら話はごく簡単なように思える。しかしそこへマーケティング戦略が絡んでくると話はもう少しややこしくなってくる。先ほどとはまた別の香料会社関係者は、大手ブランドグループと日常的にコンタクトを取る立場から、この問題を椅子取りゲームに例えてみせる。「古くから続くブランドにはそれだけ多くのラインナップがあるわけですから、新しい商品が旧作を押しのけてその席に座る、ということはよくあることです。ここでどの香水をどの椅子に座らせるかということを判断するために多くのブランドが採用しているのが、『マッピング』と呼ばれるマーケティング手法なのです。この『マッピング』に基づき、例えばタイムレスな女性らしさ、誘惑、既婚女性、自立した女性、などといった異なる女性像やコンセプトがそれぞれの香水に対し割り当てられていくことになります。それぞれの香水は自分に割り当てられたテーマを縄張りとし、隣りの椅子や別の領域に対し過度に立ち入ったり侵食するようなことがないようにしなければなりません」。これは換言すれば、マーケティング的にあまりに近すぎる世界観を持つ香水どうしは共存することができないということだ。つまり同じテーマの香水は同一ブランド内にふたつとあってはならないのである。このロジックは覆すことのできないほど重要視されており、もはやその香水がどのような嗅覚的次元を持っているかはなどはあまり問題にはされないようである。だが逆に言えば、消費者たちの大多数がそのような広告的イメージよりもその香水はどのような香りがするのかという興味からその商品を手に取っているという厳然たる事実がここでは見事に捨象されてしてしまっているということにもなる。

ブランドの顔とも言える定番商品がしばらくのあいだは安泰である一方、その横で、自分の座っている椅子からいつ弾き出されるのかと常にびくびくとおびえているのは発売されたばかりの新商品である。毎年およそ2,500もの新たな香水が市場に投入されることを考えれば(なおこのペースと量は50年前の約100倍に相当する)確かにうなずける。常に何かしら新しい商品を発売し続けなければ気がすまないとでも言わんばかりの脅迫観念めいた盲執は、まさにこの業界特有の病いと言えるだろう。「まるで香水を新規にリリースするということ自体が無条件に善行と見なされているかのような状況です」と同関係者もこの現状を冷静に分析する。「ここで思い浮かぶのが、セフォラ効果とでも呼ぶべき現象です。お客さんが店頭で『これは良い香りかしら?』と聞いたとしましょう。それに対し店員は『はい、だって新商品ですから』と答えるんです。同ECサイトで新商品が無条件におすすめ品としてピックアップされる様子が重ねて思い起こされますが、もちろんここでの店員の回答は消費者の求めている質問の答えにはなってはおりません」。当然ぽっと出の新作が成功を収めることはそうそうある話ではなく、新発売のペースが加速すればするほど商品の撤退ペースもますます早まっていく。このように業界全体があまりに短期的な視点に毒されてしまっていることを同関係者は嘆く。「今や香水の寿命は2年か、それ以下になりつつあるのです。もし売れゆきがよければブランドは再度資金を投入し、その商品のさらなる成長をうながそうとします。新たに広告を打ったりサンプル提供を行ったり、場合によっては『フランカー』と呼ばれる同商品派生のシリーズものの制作が企画されたり、といったこともあるでしょう。ですが目標に対し売り上げがかんばしくなければ、その商品に対しては特に何かしらのてこ入れが行われるわけでもなく、採算が取れなくなるまでただただ放っておかれ、やがては消えていくにまかせるだけになるのです」。短期的目標を達成することのできなかった新商品には予算が割かれず(特に重要なのは広告費だ)そんな風に何の後ろ盾も得ることのできなかった香水が香水それだけの力で成功を勝ち得ることは、この飽和しきった市場にあってはなおのこと考えづらい。この不条理とさえ言えるロジックが香水制作の現場や環境に与える致命的な悪影響はもちろんのことだが、より由々しき事態と思われるのは、香水がかくも短命なサイクルにはまりこんでしまうと、後々になってから大成功を収めることになる大器晩成型の芽を摘んでしまうということにもなりかねないということだ。あの1992年に発売されたティエリー・ミュグレの「エンジェル」だって、栄光を勝ち得るまでには10年もの歳月を要したではないか。

「今や香水の寿命は2年か、それ以下になりつつあるのです」

フィロソフィーの問題

いずれにせよ、多くのブランドにとって、こうした目まぐるしい入れ替わりがもはや当たり前のものとなってしまっているのが現状だ。ただし数少ない例外はあって、そのひとつがシャネルである。というのもシャネルはこれまでただひとつとして商品を削除したことはないからだ。「シャネルは香料会社という仲介を挟むことなく、自社で香水を製造しております」と、まさにそのシャネルの調香師であるオリヴィエ・ポルジュは説明する。「それゆえ私たちにとっては製造するのが少量でも大量でもさして大きなちがいはないのです。この点を私は大いに気に入っています。例えば『キュイール・ド・リュシー』や『ラ・パウザ』などをごく少ロットだけ作るといったことも何ら困難なくできるというわけです」。それにシャネルでは自社で販売店舗を所有しているため、売り上げがあまりない商品の取り扱いにもある程度の自由がある。これは複数のブランドを取り扱うゆえ利益率を最大化する必要に追われる他の小売店舗とは大きく異なる点であろう。

これと対照的なのがLVMHグループで、というのも同グループの一部ブランドも自社店舗を持ち自社で香水を製造しているが、それでも商品の撤退と入れ替えは他のブランドと同様当たり前のように行われている。だがこのようなちがいにこそ、各ブランドの持つ基本方針というか、物の考えかたのちがいが見て取れるのではないか。すなわちそのブランドの「フィロソフィー」、言い換えれば、香水というものをどのように考えているのか? というちがいが。つまり香水を単なる消費対象と見なし自由に用済みにしたり別のものと置き換えたりすることが可能なものと考えるのか、それともそれを使い身につける人々を通して結ばれる、私的で親密な絆を作り出す神秘的な力を持つものとして考えるのか、ということだ。「シャネルが一度として香水の『命を終わらせた』ことがないことは確かです。ただ、そのような決まりや明確な方針があるというのは少なくとも私は聞いたことがありません。私が思うに方針というよりかはむしろ本能や倫理という言葉を当てはめたほうがしっくりくるのではないでしょうか。つまりそうしてはならないという規則があったから削除しなかったのではなく、ブランドの歴史にほぼ無意識のレベルで浸透してきた、香水に対する本能的な倫理観がこの不殺の歴史を作ってきたのではないでしょうか」とオリヴィエ・ポルジュは語る。その歴史のなかでもただひとつだけ例外が存在したが、だがその例外もあくまでも存在「したことがあった」という一時的な過去形にとどまるものにすぎなかった。1987年に発売された「ボワ・ノワール」はいったん「デリスト」されはしたものの、1990年には「エゴイスト」という名で再びよみがえったのである。このふたつの香水は別の名前、別のストーリーを持っているが、どちらも完全に同じ香りである。

「香水の命を停止させてはならない、という考えのなかには、そのどこかしらに香水を神格化しているところがあるのだと思います」とオリヴィエ・ポルジュは認めている。「ですが実際、ときどき香水にはその香りをまとった人の人格や個性を丸ごと作り変える力があるのではないかと、そう思わされることがあるでしょう。それは否定できないことだと思います」。本当に、まったくその通りだと思う。だがここでポルジュが見事に代弁してくれたような言葉を人の口から耳にする機会があまりに少なく思えてならないのはいったいどういうことなのだろうか? つまりその域に達するにはそれだけ香水に対する感性が求められるということなのだろう。「やつらときたら、まったくもって馬鹿者たちですよ」と吐き捨てるモーリス・ルーセルもまちがいなくその域に達している。そして「本当に無知で、愚かとしか言いようがない」と嘆く、彼と知己のある独立系調香師のトマ・フォンテーヌもまた。ここでふたりがそろって揶揄しているのは、「香水について本当に何ひとつ知らないのではないかと思わせるくらいお粗末な」開発チームのことである。経験の乏しい若者がプロダクトマネージャーにアサインされることも少なくなく、しかもごく短期間しかいつかずに早々とブランドから立ち去っていってしまうものだから、自分がどんな製品のプロダクトに関わっているのかを深く理解することも、その製品を守る価値を知ることすらない。そもそもそれだけの短期間ではそのような思いがわくこと自体が困難であろうが。「かつてのモーリス・ロジェ(ディオールの香水部門、パルファン・クリスチャン・ディオールの社長を1982年から1996年まで務める)のように、香水についての豊富な知識と卓越した嗅覚、そして揺るがぬ信念を合わせ持つ、そんな傑出した人物は今やほとんどこの業界には存在しません」とトマ・フォンテーヌは嘆く。「そもそも意志決定する立場にいる人間からして、『好きか嫌いか』というごく単純な基準でしか判断されない消費者テストばかりに依存し、むしろそれを盾に自ら判断し決定をくだすという責任から逃れているという体たらくなのですから」。

まあ確かにそれもそのはずで、例えば「長い歴史を持つ」作品を葬り去ることを決定するとなると、その決定者はこれまで連綿と受け継がれてきた歴史的遺産を放棄するという決定をなすことになるわけで、そのような責任など誰も負いたがらないだろうということはなるほどうなずけなくもない。だがどれもこれも似たりよったりの凡百な香水に飽き飽きしていた消費者たちをその独創性によって魅了し楽しませてきたのがそうしたクラシックな香水であったとすれば、利益率を理由にそれらを消し去ってしまうことで起こる弊害として今一度注意しておきたいのは、豊富かつ多様であった香水から選択の幅が失われ、香水業界は均一化の一途をたどっていくだろうということだ。「ずっと変わらない香水というものは、時がたつにつれてますますオリジナリティあふれるものになっていくものなのです」とオリヴィエ・ポルジュは述べる。確かに、株主たちの求める基準に達しない、そのような「ふるわない」商品を維持しようとするなら何か一計を案じる必要があるだろう。例えばだが、他の大ヒット商品によって得られた利益をそこに投入するというのはどうだろうか。これまで受け継がれてきた遺産を足がかりにして得られた成功は、その遺産の維持のためにこそ役立てられるべきなのではあるまいか。つまりそんな風に企業内でしっかりと意思疎通ができていれば、古ぼけて、今にも用済みにされそうになっている香水にだって再び息を吹き返し新たな生が与えられるチャンスがあるのである。実際世界で最も愛されているシャネル「No.5」が100周年を迎えたことを考えれば、決して非現実なことではないはずだ。

「そもそも意志決定する立場にいる人間からして、『好きか嫌いか』というごく単純な基準でしか判断されない消費者テストばかりに依存し、むしろそれを盾に自ら判断し決定をくだすという責任から逃れているという体たらくなのですから」

よみがえる香水

何もそう暗い話ばかりでもないので、どうか安心してほしい。良いニュースがあるとしたらそれは他でもない、死んだ香水にはよみがえりの可能性が残されているということだ。この秋、長らく市場から姿を消していたフランソワ・コティの美しい3つの作品が限定版として復活をとげたときの感動は記憶に新しい。フィルメニッヒの調香師ダフネ・ビュジェによって再解釈された、かつての「ラ・ローズ・ジャックミノー」(1904年)、「ロリガン」(1905年)、「ジャスミン・ド・コルス」(1906年)という3作品が再びこの現世に姿を現したことで、人々はフェニックスをシンボルに掲げるこのブランドの復活が決して一時的なものではなく、永続的な生まれ変わりを果たしたのだということをひそかに予感したことだろう。「フランソワ・コティは私の祖父の祖父にあたります。現在私が温めている夢のような計画とは、彼の生み出した偉大な作品のすべてを、残らず復活させることなのです」とフランソワ・コティ協会会長のヴェロニク・コティは語る。そして実際、同氏は上記の3つの香水の復活を実現した。それを可能としたのは偉大なる祖先が遺した虎の巻だ。そこにはフランソワ・コティのすべてのフォーミュラが記されている。「ですので、このプロジェクトには特に目立った障害は見当たらないのです。強いて言えば、長い時間が必要なことくらいでしょうか」。

一方ティエリー・ワッサーは、あの「ダービー」の夫を亡くした女性の悲痛な叫びに対しついに沈黙を保ったままではいられなくなった。そう、彼は「ダービー」を復活させたのである。2012年のことだった。そして彼がそうしたのにはおそらく、失われた香水を再び見出すことができたときの感動を彼自身が身をもって体験していたということも少なからず関係していたのであろう。彼にとってのそれは、彼の母親が19歳から40歳まで愛用していたというランバンの「スキャンダル」であった。その「スキャンダル」が廃止されたのが1970年のことで、愛用する香水の死に際し、ワッサー夫人は「ひどく落ちこんでしまっていた」という。そして10年ほど前に、ワッサーはこの話を友人の調香師であるリシャール・フレイスに打ち明けるのである。彼は「スキャンダル」の生みの親であるアンドレ・フレイスの息子であった。「その半年後、リシャールは父親の遺したフォーミュラを元に再現した『スキャンダル』のボトルを私に差し出しました。こう言ってはなんですが、私としてはまったく期待していませんでした。何しろとても複雑な構成で、当時使われていた香料の多くが今は存在しないものでしたので、完全な再現など不可能に決まっていると、そう高をくくっていたのです」。果たしてその結果は? そこでティエリー・ワッサーは言葉を止め、ひと呼吸おく。目にはうっすらと涙さえ浮かんでいる。「リシャール・フレイスは私のために、母の香りを取り戻してくれたのです」とそう彼はしぼり出すように言葉を継ぐ。「おかげで当時80歳だった母に、かつて女盛りだったころの自分の体からどのような香りがしていたのかということを思い出させてあげることができました。もちろんこれは、私がこの仕事をしていたからこそ実現した例外的な結果であったということはよく分かっています。ですがこのようなわけで、私にはひとつの香水が死ぬということがいかに痛ましいことなのかが痛いほどよく分かっていたというわけなのです」。

だが香水があの世からのカムバックを果たすとき、当然のことながら厳密にはそれはオリジナルとはいくらか異なる姿をしている。ジャン・パトゥやリュバンなどで多くの死者たちを復活へと導いた経験を持つトマ・フォンテーヌもまた、そのことをよく知っていた。「これは例外すらまれだと思うのですが、IFRAや欧州規制の影響がある限り、古い香水をまったく同じものとして再現することは不可能でしょう。例えばジャン・パトゥでは動物系の香料が多く使われていました。ご存知の通りこれらは今日ではことごとく禁止されています」。こうした規制や使用上の制限に加え、原料そのものにまつわる事情も時代とともに刻々と変化してきている。というのも一部の原料はもはや手に入らないし(複数の原材料を組み合わせた「香料ベース」がこれにあたり、近代香水の歴史を描いてきた多くのベースの販売がすでに終了しており、その再現はますます困難になっている)、かつて使われていたころとはまったく変わってしまったもの、さらに同じ言葉でも今と昔では異なるものを指すものさえある(例えば「ジャスミンのアブソリュート」と言われて差し出されるのが現在と100年前とで異なるのは、ひとえに近年の抽出技術の進歩によるものだ)。

ときに徒労に終わることも

これに加え、価格のちがいも無視できない要因となってくる。「現在ではまず忌避されるレベルの高コストの香水でも、昔は果敢に取り組まれておりました」とトマ・フォンテーヌは述べる。「今の業界なら、キロあたり200ユーロで作れればまずまずといったところでしょう。これもブランドによって異なりますが、40ユーロのところもありますし、大半のブランドではキロあたり120ユーロ前後といったところでしょうか。これに対し1948年に作られた『レール・デュ・タン』が600ユーロであったことを考えると、当時の一部の香水が度はずれてコスト高だったことが分かるでしょう。そして当時世界で最も高価な香水と呼び名の高かったジャン・パトゥの『ジョイ』ですが、その呼び名にたがうことなく、そのコストは何とキロあたり数千ユーロにものぼりました」。ジャック・ファットによるあの名高き「イリス・グリ」(1947年に発売され1954年に姿を消した)、そのオリジナルに最も近いとされる再現が「リリス・ド・ファット」として2018年にジョイヴォワから発売されたが、その価格は実に1,470ユーロであった。まるで時間を過去へとさかのぼるにはそれだけ高くつく、とでも言わんばかりの価格設定だが、しかし実際にその通りなのであろう。そしてここでトマ・フォンテーヌが注意をうながし強調するのは、その試みが単なる期待はずれや骨折り損に終わってしまうという結果もじゅうぶんにあり得るということなのだ。「かつての香水には天然素材がかなり高い比率で使われていたわけですが、私たちの世代にその時代のことを知っているものは当然ながらおりません。現代の基準ではヘディオンやホワイトムスク、イソ・イー・スーパーといった合成分子の多用が前提となっているため、それに慣れきってしまっている私たちからすれば昔の香りはなおさら複雑で、理解困難なものに感じられてしまうのです。ですが古い香水を再現するにあったっての最たる困難は、オリジナルに対し可能な限り忠実であるべきだという精神と、実際に完成品として提示される商品とのあいだにバランスというか、ある種の妥協点・着地点を探さなければならないという点にあると言えるでしょう。というのもそれが永遠に棚に飾っておくものではなく実際に消費者たちに向けて販売され、彼らに使われることを想定しなければならない以上、その香水に対しオリジナルにはなかったどこか現代的なところを付与する必要が生じてくるためです」。

そんな現代性なんてどうだっていいんだ! そう言わんばかりに過去を崇拝してやまない、そんな純然たる伝統主義者たちはどうすればよいのだろうか? ベルサイユにあるオスモテークを訪ねるとよいだろう。約5,000種類の香りと、今や存在しない800超の香水をかぐことのできる世界でただひとつの場所である。この存在しない香水の数々は驚くべきことに当時のフォーミュラと寸分たりともたがうことのない、まさに純粋なる「複製」となっており、これらは無償で作業を買って出た調香師たちの途方もない献身の賜物であるとともに、このプロジェクトに賛同した各ブランド各香料会社が現在では入手することのできない原料のストックや古いフォーミュラを提供したことによって実現したものである。またベルサイユ大学化学研究所との提携によって、1981年から1998年にかけてつぎつぎと禁止されていったニトロムスクを始めとした分子もオスモテークには所蔵されている(ただしその後禁止が解かれたムスクセトンに関してはここから除外されている)。これらの分子は1980年代には非常に幅広い範囲で使われており、特に当時の「レール・デュ・タン」への使用で知られ、ゆえに同香水の往年の愛用者にとってはこれ以上ないほど懐かしいものと感じられるにちがいない。このような膨大なる香りのアーカイブとしてのオスモテークは、まさにひとつのタイムマシンと呼べるだろう。「ときどき訪問者の方々がムイエットを鼻に近づけ、思わず涙を流すというのを目にするんです。とても感動的な光景ですよ」と、そう語るトマ・フォンテーヌは最近、この名誉ある施設の館長の職に就いたところだ。香水という文化をより多くの人々に発信し広めるうえでもこのオスモテークは欠かせない場所と言えるだろうが、業界関係者たちにとってもそこを訪れることはきっと、自身がその一部として参加している歴史を改めて意識し自覚する助けとなることだろう。そして集合的にも私的にも継承さてきたこの遺産の生殺与奪の権利を握っているのが他ならぬ自分自身なのだと、それを生かすも殺すも自分次第なのだということを、彼らは改めて理解するのだろう。

「現代の基準では合成分子の多用が前提となっているため、それに慣れきってしまっている私たちからすれば昔の香りはなおさら複雑で、理解困難なものに感じられてしまうのです」

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