ティエリーが香水をつけるのは、「必ず毎日だね。それこそ引越しのときでもない限りはね」。引越しの段ボールに囲まれながら彼はそう語る。「基本的には毎回ちがう香水を使っているよ」。200種類にもおよぶお気に入りの香水のなかからそのひとつが選ばれる。実際にはその倍の香水を彼は所有しているが、この新しい住まいでは残りの200種類は地下室にしまわざるを得なかった。
ティエリーは自身のことを「人一倍こだわりが強く、貪欲な人物」と評する一方で、色々なボトルを取っ替え引っ替えしながら喜びの新たなる美学を更新することに情熱を燃やす、あの「ハードコアな香水狂いたち」のひとりであるということも認めている。「そう、忘れていた音楽の曲を思いがけず再び見出すときのように、あるいは珍しいお茶を味わうために棚のなかからティーセットを取り出すときのように、そんな風にして新たな喜びの形はやって来るわけなんだ」と彼は述べる。「偉大なるシャネルの名香」の数々、そしてゲランの「ジッキー」や「ミツコ」にいたっては「2つか3つずつ」持っていて、なかでも「ミツコ」が「僕のいちばんのお気に入りなんだ」という。一方で「香水に対しては漠然とした不安を感じてもいる」とそう彼は打ち明ける。「それがいずれ消え去っていく世界であると知りながら、僕は自らが所有する香りのアーカイブによって呼び起こされた、それまで記憶のなかに眠っていた何かの内部へと深く没入していくんだ」。
さすがのティエリーも、経済学部教授として教壇に立つ際は好きな香水を身につけることを自重する。あるときなどは、彼が講義を始めるべく教室に入っていくとひとりの女子学生が「なんかおばあちゃんの匂いがする!」と騒ぎたてたものだった。そのぶんバカンスではぞんぶんに好きな香りを堪能する。特に夜は、ジャン・パトゥの「シャルデ」やフレデリック・マルの「カーナル・フラワー」を楽しむ。彼は気温にも敏感である。カルティエの「トレージエム・ウール」を始めとしたいくつかの香水に関しては、寒いときにしか使わない。なぜなら「5℃以上だとその香りが息苦しく感じられるんだ!」。
身につける香りに対し十全に集中できるように、ティエリーは周囲の嗅覚環境をでき得る限り軽くするよう努めている。「シャワージェルからシャンプー、洗剤にいたるまで、無香料のものしか使わないようにしているよ」。その彼の情熱を満たすためにはかなりの予算が必要なはずであるが、「だいたい月200ユーロってところかな」とティエリー。「ただ」と彼は留保をつける。「裏ルートやフォーラムを活用して、実際よりいくぶんかは安く仕入れているよ」。
酔いと依存症
美しいアクセサリーとしての、あるいは誘惑の道具としての香水は嗅覚に訴えかけるものであるわけだが、その香水は他の感覚に訴えるかけるものと同じくらい、果たして魅力的なものなのだろうか? だがそうだとしたら、多くの詩人たちが歌い上げる感覚の高揚が、なぜ嗅覚だけを除けものにしているのだろうか? 民族学者のクロード・レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』(プロン社、1955年刊)のなかで、ブラジルへと向かう船上で感じたという「嗅覚的な酔い」について記している。見知らぬ、したがってまだ見えていない新たな土地との最初の出会いを前にして鼻がうっとりとした陶酔を感じたのだと、そうレヴィ=ストロースは書いている。ある香りを前にしたときの酔いと、グラスを手にしているときのそれとは同じものなのだろうか? そう考えることも可能だろう、とティエリーは認める。「つまりそれは、複数人で共有可能な何かを前にしたときの、集団的高揚なんだ。ちょうど皆でお酒を飲んでるときに陽気になるような、ある種の伝染する感情だ」。
そのような軽い酔いから深刻な依存状態へといたるまでは、まさにあっという間、ほんの一瞬さえあれば事足りる。ディスプレイ依存症や音楽狂、ハリボー中毒などといったものまで存在するのだから、香水に依存する人がいたとしてもそう不思議ではあるまい。香水や薬物が人との距離を縮めてくれるように思わせてくれることもあるかもしれないが、しかし実際依存症にかかってしまった人々は「ひとつの化学物質に支配されるあまり、ひとつの瓶のなかに、すなわち自分自身の世界のなかに閉じこもってしまうのです」と、そう精神分析医のジェルマン・アルス・ロスは述べる。だが予防医学に献身する北欧の医師たちも、どうか安心してほしい。というのもこと香水に関しては、技術的に大きなリスクはないのである。文化人類学者のアニク・ルゲレーも2018年に雑誌『レ・ザンロキュプティブル』に記しているように、ある匂いに対し完全なる依存状態に陥ることはまず不可能であるし、例えばハシシやエーテル系麻酔薬といった鼻から吸引される依存物質ならいざ知らず、香水の使いすぎによって死にいたることは(少なくとも今のところは)ないし、健康(精神的なそれも含む)を害する恐れもないのだから。
ひと鼻惚れ
それでは、上記のごとくひとつの瓶ではなく、多くの瓶のなかに自らの道を探し求める人々のことはどう考えたらよいのだろうか。彼らの依存はいったいどこから始まっていたのだろうか。お決まりのごとく、やはり幼少期からなのか。それとも、母親の胎内の時点ですでに始まっていたとでもいうのだろうか。「生命の始まりにおいて、感覚の世界はもっぱら嗅覚に占められているのではないでしょうか。と申しますのも精子には目も耳もないのですから、もし嗅覚までなかったとしたら、いったいどうやって正しい目的地までたどり着けるというのでしょうか?」と、そう自問するような調子でジェルマン・アルス・ロスは述べる。胎児が生まれる前から嗅覚のシステムを備えているということはよく知られている。妊娠期間中、匂い物質で満たされた羊水のなかに浸かっていた胎児は、生まれたときからすでに母親の匂いが認識できている。そこから(洗濯物や家庭環境、住んでいる場所の気候などといったそのような)嗅覚的因子に応じて、彼の感覚的経験はじょじょに複雑化していくのである。
幼児が始めに敏感になる匂いはもちろん母親のそれであろうが、2番目に来るのはまずまちがいなく、ぬいぐるみ、スカーフ、布きれ、といったものであろう。まるでその子どもの影であるかのようにどこまでもつき従い、彼自身もかたときたりとも手放すことのないそれらの品々は、母親の匂い代替品なのだ。文化関連の仕事に従事するアマンディーヌは、思春期の終わりごろまで水色のかけ布団に固執し続けた。「子どものころ、それに鼻を押しつけて眠っていたんです。そのかけ布団からは温かく、どこかほっとするような匂いがしました。あれは私自身の匂いだったのでしょうか? その布団が洗いたてのときには、私は嫌がりました。その布団が本来の匂いを取り戻すまでにはたっぷり2日か3日かかりました。今では、その布団からは何の匂いも感じません。でももしその匂いを再びかげたなら、他のどれほど多くの匂いのなかでも、きっと私にはすぐにそれだと分かるはずです」。
「子どもというのは自分が育った環境の匂いに愛着を覚えるものです」と、再び精神分析医のジェルマン・アルス・ロス。「その親しみは、所有と帰属という二重の関係から来るものなのです」。私たちが不意に覚える嗅覚的なノスタルジーは、そのような失われたぬいぐるみの物語、そしてその背後にある母親の物語と深く関係しているのだろうか。
「昔から、何かとくんくんしちゃう癖があったわ」とメディアテーク職員のナターシャは語る。「今でもそう。料理を食べるときも、味わう前にその香りを楽しむのが好き。けれど、人前では遠慮することのほうが多いかな」。ロマンチストな気質がある彼女は長いあいだ「頭のなかでコレクションする」だけで満足し、他人がつけている香水の匂いをかいでは、自分もいつの日かその香水を手に入れる日が来るのだろうかとそうぼんやりと夢想する程度だったが、今では彼女自身が立派な香水コレクションのオーナーである。コレクションは実に豊富でかつ巧みに構成されており、シャネルやゲラン、ラルチザン・パフュームの香水が所狭しと並んでいる。彼女が探し求めているのは、「感情が動かされる」香水だ。そう、まさに「ひと目惚れ」ように。その一方で、最近の新作には「いまいちだ」と感じている。「どれもこれも似たりよったりで、私に合ったものがないのよね」。それでも彼女は定期的にパリへと繰り出し、ニッチブランドの店舗や大手百貨店に探索に出かける。「その冒険へはいつもひとりで行くの。なぜかって、これは私自身を探す旅なんだから」。
そんな風に彼女が理想の香りを追い求める様は、恋愛物語に似ている。つまり香水ひとつが、ひとつの恋のアバンチュールに相当するのだ。「どんな香水でも年に2、3日だけつけるというのがせいぜいってところ。どんなにその香水が好きでも、完全にはしっくりこないって思っちゃうのよね……」。プラトニックな関係にとどまる香水も少なくはない。すなわち、「ただ香りをかぐだけで、身につけない香水もあるわ」。そうしてすべての試練を乗り越えたごく少数の香水だけに(例えば「ミュール・エ・ムスク・エクストレーム」など)、彼女は忠誠を誓うことになる。彼女が身を置くことになるのは、そのような香りのポリアモリーなのである。とはいえ時とともに彼女を裏切る香水もでてくる。センチメンタルな恋愛小説のように、そうしてすべてが壊れ、すべてが台なしになってしまう。さあ次よ、次! ナターシャはひとたび「その香りそのもの」への愛着が切れると、ボトルごとためらいなく捨ててしまう。
そんな風に、ひとつの依存が別の依存によって追い立てられるということもあるのであろうか。「香水を過剰に消費するということとはすなわち、その人が嗅覚による帰属意識に過剰な価値を置いているということの表れなのではないでしょうか。プルーストは『思い出の巨大な建造物』あるいは『他のすべてのものの廃墟』といった言葉でその感覚のありようをたとえておりますが、良い香りとは、自分以外の何かから愛情とともに寄り添われ、それによって保護されているかのような、そのような感覚とともに経験されるものなのです」とジェルマン・アルス・ロスは述べている。
クラシカルな香水が再調合されることにより再び嗅覚の宝探しへと乗り出す機会が与えられるとともに、愛好家たちはどれが良いビンテージなのかを知るようになる。
「スニファスロン」へ
英語教師のイザベルもまた、自身が香水に「取り憑かれている」ことを認めている。「もう四六時中香水のことを考えています。ほとんど強迫観念のようなものですね」。他の香水中毒者たちと同じように彼女の香水熱もまたインターネットやフェイスブックの普及とともに高まっていき、そのようなネット上で出会った「パフューミスタたち」と、彼女は盛んに情報交換を続けている。「私の消費は度を超えていますので……」。数ヶ月前に数えてみたところ、現在彼女は200本近くの香水を所有している。そしてそれらを光、熱、湿気から保護するために、オーク材のキャビネットやしっかりと閉じられた戸棚のなかにしまい、入念に保管している。 彼女はいつも香水をつけている。家でひとりでいるときも例外ではない。例外は、「スニファスロン(香水愛好者たちが店舗をはしごし、さまざまな香水を試すこと)」へ出かけるときやレストランで食事をするときだ。「そのような場へ香水をつけていくのはマナー違反というものでしょう」。彼女はその日つける香水をどのような基準で選んでいるのだろうか? とりあえずは、その日に気分で。「自分につける香水を選ぶというのは、純粋に自己中心的な行為であると言えると思います。今の自分が必要としているのは元気を与えてくれるものなのか、それとも安心させてくれる何かなのか。あまり注目されたくないときに『オピウム』を選ばないことだけは確かですね……」。彼女のコレクションは定番ものが多くを占めている。「ファースト」「リヴ・ゴーシュ」「パリ」「シャンパーニュ(1996年に”イヴレス”と改められた)」「トレゾール」「アルページュ」。さらに「No.5」にいたっては、「ほぼすべての濃度を網羅しています」という。「まさに時代を超えた香りと言うほかありません。私はいつも『No.5』をつけていますが、それがおばあちゃんの匂いだと感じたことは一度もありません」。
そんな彼女と同様に、ティエリーもまた同じ名前を持つ香水を、異なるフォーミュラや濃度で3本所有しているというものが複数ある。特に「ジッキー」や「ミツコ」がそうで、「2005年ビンテージは2019年とは全然ちがうんだ」と話す。そんな風にクラシカルな香水が再調合されることにより再び嗅覚の宝探しへと乗り出す新たなきっかけが与えられるとともに、稀少香水の愛好家たちもそれを通じて、ワインと同じようにどれが良いビンテージを見分けられるようになるのであろう。「2013年の『ミツコ』は本当に素晴らしい」と、そうイザベルも評価している。「もちろんつけてますよ。でも、使いきってしまったらもうそれまでということになりますね。しかたないことですけど」。
いくつもの選択肢があることは彼女に安心感を与えているが、イザベルはコレクター気質ではないようだ。「何人かの友達がミニボトルを大事そうに集めているのを知り、何だか滑稽だと思ってしまいました。なので私は、それ開けないの? って聞いてみたんです」。彼女にとって香水とはコレクションとして保管しておくものではなく、あくまでも消費するものなのだ。「だって、使わなくても液体はじょじょに蒸発していってしまうものでしょう」。おそらく天使の取り分(ワインやブランデーなどが熟成中の蒸発によって目減りすること)のことを言っているのだろう。
イザベルは香水をつけた瞬間から始まるうっとりとした時間を長く引きのばす方法を学んだという。しかも香水をつけ直すことなく、だ。そのテクニックは衣服の下に香水をつけることである。そうすることによって服の繊維のなかに香りをしみこませることができ、「それが体温とともに温まり、服の上から立ち昇ってくるのです」と彼女はこの方法がたいそうお気に召している。同じように、彼女は持っているスカーフやストールにも香りをつけている。さらには夏にはカーディガン、冬にはコートの裏地にといったように、彼女の編み出したこのテクニックは広く活用されている。
クマの匂い
もうひとりのパフュームフリーク、オードは、香水情報サイト「オーパルファン(Auparfum)」のフォーラム内では「ウード・ア・ラムール(愛に捧げるウード)」というハンドルネームで知られている(訳者注:「オード・ア・ラムール」”愛への賛歌”をもじったものと思われる)。イザベルとティエリー同様、主にネット経由で購入し、店舗では買わない。数ある香水のなかでも彼女が偏愛してやまないのは「毛皮、レザー、そして濃密なフローラルな香り」、そして「何と言っても、専門家からも最高の年代と評される1980年代のもの」であるという。彼女が持っている香水は全部合わせても15本程度で、長い年月をかけながら自分自身への贈り物として少しずつ集めてきたものを大切に保管し、ゆっくりと時間をかけながら使っている。 オードは香水のコレクターでもなく、かといって通ぶっているわけでもなく、あくまでも自分はひとりの「愛好家」なのだと称している。そんな彼女は都会っ子ゆえに「自然の匂い全般」に中毒に陥ってしまっているのだという。彼女の持つ鋭敏な嗅覚はとても早い時期から発現していたが、それによって抱く感情は、喜びよりもむしろ嫌悪のほうが多かった。子どものころ彼女はパリの植物園の近くに住んでいたのだが、そこでは窪地状の飼育場でクマが飼育されていて、そこから「糞と血が入り混じったような野生的で暴力的な匂い、半分魅力的で、けれど半分怖い、そんな匂いがキュヴィエ通りを歩くたびに鼻先まで届いてきた」という。また、オードは今でも「汚れたスポンジの匂い」がだめで、そのため2、3度使っただけですぐ捨ててしまう。「子どものころ飼育していたカタツムリの匂いを思い出させる」という理由から、少しばかりしおれたサラダの匂いに対しても敏感だ。しかしその一方で、彼女はそういった不快な匂いの一部を少しずつ克服しつつもあり、そうした嗅覚的記憶を呼び覚ます匂いをかぐとき、彼女の感情は喜びと恐怖のあいだを揺れ動いている。「そのようなわけで、『ムスク・クビライ・カーン』とか『セクレション・マニフィック』といった香水をつけるのはちょっと躊躇してしまうの。けれど、おかしくなるくらい癖になる香りだってよく言われるわよね」。
タバコや薬物がそうであるように、香水は、使用者とともに寄り添う伴侶となる可能性を秘めている。しかし同時に、「ひとつの異質な存在」として立ち現れてくることもあるわけで、そのことについてオードは次のように打ち明ける。「香水をつけるかつけないかは、部屋のなかにひとりでいるか、それとも誰かといるかっていう、それくらい大きなちがいがあると思う。つまり香水をつけてしまったら、ひとりでいるときのような気楽な心地ではいられない」。 香水を身にまとうのは、彼女が毎朝家を出る前の最後の瞬間に行われることだ。「シャワーを出たときとかじゃなくて、服を着てメイクをした後の、もう本当に最後の最後ね」。彼女のバッグのなかには「No.5」のアトマイザーが常に忍ばされている。「邪道かもしれないけれど、これを『ファム』と混ぜて使うこともあるわ」。オードにとって香水とは身じたくの仕上げとなるものだ。香水をつけるということは彼女にとって純粋に社会的な行為であると言え、そのため自分自身のためだけにつけるということはまずないし、寝香水として枕につけるようなこともない。
「それをやってしまうと、香水が私自身の私的な領域のなかに入りこみすぎてしまうような気がするの」。彼女にとっては香水は、内なる安心感を与えてくれるぬいぐるみというよりかは、より対外的な衣装やアクセサリーに類するものなのだ。
「毎朝のように私は、私とはちがう別の何かに変装する。香水をつけることで私のなかに別の人格が宿る。妖艶な雰囲気をまとう大御所女優みたいになりたいと思ったときには、グラマラスなドレスの上に毛皮を羽織り、ロシャスの『ファム』を合わせるの」。それが「グッチ・ブルーム」だったら「可愛らしい白のワンピース」に。また太陽が照りつける強い日差しの下では、彼女は「シャリマー」をすすんで身につける。そして誘惑したいという衝動を感じているときには、スキャパレッリ「ショッキング」のビンテージ版を身にまとうのだ。「本当にセクシーな香りよね。寝覚めにショーツから香ってくる匂いが『ショッキンング』っていう、その名前の由来とされているわよね」。そうだ、生々しい身体性を想起させるそんな匂いこそ、むしろそんな風にすすんで誇示されるべきものなのかもしれない。「私たち人間は皆それぞれが固有の嗅覚的しるしを持っています。それを変えることはできませんし、完全に覆い隠すことも不可能です」と、ジェルマン・アルス・ロスもそう指摘する。「ひとつの体の真実とは、その匂い、すなわち体臭のなかにこそあるのです。香水は感覚に訴えかける一枚のベールとして、その体自身の持つ固有で私的な香りを、ときにありのままに暴きたて、そしてときに覆い飾りたてることによって賛美することを試みるものなのです」。
ひとつのお守りとしての香水
とはいえそんな風に身なりを整えるというのもそう簡単なことではなく、それ相応の努力の結果であるということも理解されてしかるべきであろう。「人生のある時期には」と、そうオードは語り始める。「私にはそんな風にする気力なんて湧かなかった。そのころ私は自分の仕事が好きになれなくて、何だか疲れていて、そして傷ついていた」。香水を身にまとうということ、それは彼女にとって「この世界でやっていかなきゃってことを受け入れること」であるという。それは世界と対峙するための鎧をまとうことと似ているかもしれない。中世におけるペスト蔓延下では、香りの調合物が「悪魔の吐息」から身を守るための護符の役割を果たしていたことがここで自ずと思い起こされる。
「私にとっても香水はある意味、鎧なのです。香水をつけることで自分の居場所を取り戻せるような、そんな気がします」、とジャーナリストのジュヌヴィエーヴは語る。彼女にとってこの現代におけるお守りは、混沌とした嗅覚世界に日々立ち向かうためにもはやなくてはならないものとなっている。彼女は毎朝、その日の自分にとって何が必要であるかを思案しながらお気に入りの4本のなかからひとつを選ぶ。「『ハバニタ』はいつも誠実な友として私に寄り添ってくれています。『ミツコ』は世界から一歩距離を置きたいときに使います。私にとってその香りのきつさはもう気にならなくはなったけれど、その香りの強さが周囲に与える影響は今もじゅうぶん理解できています。『シェルギー』は私の4傑のなかでは新参ですが、この香水はポケットのなかに嗅覚の旅を入れて持ち歩くようなものです。そして『ポートレイト・オブ・ア・レディ』、この香水を私はただ恋人の前でだけつけるのです……」。そうだ、ここに挙げた香水の中毒者たちは皆いつまでも、大いなる魅力をたたえた誘惑者であり続けるのだ。
翻訳:藤原寛明
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