THE ANIMAL SENSE

By Denyse Beaulieu

毛皮とレザーの香り

ドニーズ・ボリウ

 官能的な猛獣、由緒ある血筋の馬、そして純潔の象徴としての鳩。ビーバーやマッコウクジラから引き出される成分はひとつの物質以上のものを表している。香水とは人の想像力を刺激するものであるが、そうした動物たちの香りをまとうことによってまさに想像力がかき立てられ、人は動物へと変貌をとげるのである。

彼女を擁護するものたちは彼女に「アヴニ」という名をつけた。反対に彼女を追うものたちは彼女をコードネームで「T-1」と呼んだ。彼女はインドのマハラシュトラ州で13人もの村人を殺害した罪に問われていた。その彼女とは雌のベンガルトラで、2018年11月に射殺された。事の発端はアヴニがある香水の香りに引き寄せられたことに起因するとされたが、その香水とはカルヴァン・クラインの「オブセッション・フォーメン(男への妄執)」であった。人喰いの猛獣をめぐる文脈のなかで語られるにしては、またずいぶんと物騒な名ではないか。カルヴァン・クラインのその香水は合成分子のシベトンを含んでいた。その名の通り、麝香猫から分泌されるシベットを思わせる成分である。そして猛獣たちは、まさにこの香りを好むのだという。ニューヨーク市・ブロンクス動物園に本部を置くNGO「野生動物保全協会(Wildlife Conservation Society)」は2010年より、動物園で飼育されている猫科の猛獣たちをリラックスさせるためにこの香りを取り入れていた。猛獣たちはその香りに酔いしれ、無害な普通の猫とまったく同じような感じで、お腹をかいてもらいたそうにくねくねと身をよじらせるという。さらにこの米国のNGOはグアテマラでジャガーとピューマの気を引くために同じ方法を用い、そうしてカメラの前まで誘導して、自然環境のなかに生きるこの動物たちの姿を映像におさめることに成功している。しかしこのたびのインドにおいて、まさにこの嗅覚的妄執(オブセッション)が初めて死者を出す結果となってしまったのだった。

「男なんてみんなケダモノなんだから……」と、きっとローラ・ファラーナだったらそう言いながら、猫がシャーッと威嚇するような、そんなうなり声をあげていることだろう。ローラ・ファラーナは1975年、有色人種で初めて有名ブランド香水の広告塔になった女優であるが、その香水というのがまさにファベルジェ「ティグレス(雌のトラ)」なのだった。ラスベガスのファーストレディの異名を持つこのスターを、野生的な香りが特徴のこの香水のアイコンに起用したことは確かに大きな批判を浴びはしたものの、しかしながらこのように、西欧中心主義的な言説ではもはやおなじみのものとなっている「エキゾチックな」女性が動物である猫と、さらにはその動物をコンセプトとした香水に結びつけられるという構図を改めて白日のもとにさらしたという点においては、この香水の広告には相応の価値があったと言えるのではないだろうか。この香水、すなわち美しいが、とらわれてしまったら致命的となる動物への罠。そうだ、アヴニにとってはまさに致命的だったのだ。エキゾチックな女性と野生の香りというこの同じ構図を、シャルル・ボードレールもまた自身の詩篇「香り(Le Parfum)」のなかでなぞっている。愛する女性を賛美したこの詩のなかで、ボードレールは次のように詠んでいる。すなわちその髪からは「野生的で猛獣のような」匂いがし、その衣服からは「毛皮のような香り」がした、と。

香水と毛皮動物

人間の体の奥底に眠る獣としての本性を覆い隠しながらも、暗にその獣性をほのめかすものとして、香水ほど適したものはないのではないか。そしてそれが「毛皮の香りを持つ」ものであるときほど、その二重性が十全に強調されることはないだろう。そのような香水が肌の上に吹きつけられるとき、ベル・エポック期の風刺作家オーレリアン・ショルの警句を引くとすれば、「その皮膚はひとつの獣からまた別の獣へと変貌する」。そしてそのベル・エポック期にに引き続く狂騒の時代(1920年代)には、もとは毛皮商として知られたヴェイユが「チンチラ」「エルミン」「ジベリン」などを発表し、動物系のフレグランスを出した初のファッションブランドのひとつとなったのだった。

1960年ごろにパルファン・クリスチャン・ディオールが社内向けに実施した調査によると、消費者たちは「ディオラマ」(1949年)を文字通りのフレグランスとして使っているというよりかは、おそらくどこか比喩的な、象徴的な意味をこめて使用しているのではないかという。消費者たちは同香水の特徴を描写する際に、「冬の季節と毛皮を思わせる香り、[...]官能を刺激する、今どきの女性はあまり求めないような香り」といった表現を用いたとのことであった。おそらくここで言及されている動物性とは、エドモン・ルドニツカの調香によるフルーティなシプレ、そしてカストリウム、シベット、ムスクのノート、軽く匂う汗を思わせるクミンの香りから来ているのだろう。

しかしながら香水において毛皮がイメージされるとき、思い浮かべられるのは息づく獣の気配というよりかはむしろ、エレガントな美女のイメージだ。「リウ」(ゲラン、1929年)におけるシャム猫や黒ヒョウ、1950年代から60年代の「マイ・シン」(ランバン)の広告のなかの黒猫、そしてルネ・グリュオーにより1949年に描かれた「ミス・ディオール」の広告ではヒョウの足の上に女性の手のひらが寄り添うように重ねられている。これはブランド創設時からのミューズでレオパード柄を誰よりも好んだミッツァ・ブリカールへのオマージュであるとされている。毛の生えた数ある動物のなかでも、香水のボトルや広告キャンペーンで見られるのはこのように猫科の動物ばかりである。

一方で1970年代に入ると、猛獣の危険性がより直接的な形でクローズアップされるようになる。カルヴェン「マ・グリフ(私の爪)」のキービジュアルでは男性の背中の上に引っかかれた爪の跡が鮮烈に残され、1985年にクロード・シャルボルによって演出されたディオール「ポワゾン」の初のテレビCMには黒ヒョウが登場する。この流れからカルティエもまた、ブランドの象徴をなす動物であるとともに、1933年から70年までアーティスティックディレクターを務め多大なる貢献をしたジャンヌ・トゥーサンの愛称にちなみ、ひとつの香水を捧げた。「パンテール(ヒョウ)」である。しかしこの香水はフローラルで、あまりぱっとしない感じであった。「パンテール」がその名にふさわしい獣としての本性をほしいままにするには、マチルド・ローランによるバージョン、特にそのエクストレが出る2014年まで待たなければならなかったのだ。果実のようなシプレのノート、そしてその花びらと毛皮の香りの背後には、麝香鹿が保護されて以降はパレットから姿を消した、あの伝説的なトンキン・ムスクが見事に再現されているのを認めることができる。

香水において毛皮がイメージされるとき、思い浮かべられるのは息づく獣の気配というよりかはむしろ、エレガントな美女のイメージだ。

レザーをまとったアマゾネス

クラシックな香水は毛皮動物特有の獰猛なイメージを喚起させるが、しかし実際にはそれらの香水から香ってくる動物的なノートは、むしろ毛皮を持たない有蹄類の動物たちから来ているものだ。そしてその有蹄類の動物たちが身にまとっているレザーは、男らしさの象徴であるとともに旅や狩りといったものを想起させる。したがってこの第二の皮膚は、それを身につけるものに対し、気弱な獲物から危険を恐れぬ狩猟者へと変貌することを約束するものであると言えよう。香水という目には見えない毛皮のコートをまとったものが、人喰いの獣になることを夢想するのと同じように。その例証として以下に挙げるのはシャネルのアーカイブにある1936年に書かれた文章からの引用であるが、そのなかでは「キュイール・ド・リュシー(ロシアン・レザー)」が「優雅で贅沢なカクテル、旅への招待状、冒険的誘惑」といったイメージをもとに着想されたということが書かれている。そしてそれを身につけるのは「黒髪の、背が高くて細い女性。決然とした振る舞いで、人に命令することに慣れた声音、[...]口には阿片タバコをくわえ、いつでも手の届く場所にウィスキーの瓶を置いている」、そんな女性であるべきだとある。

レザー系の香りは馬具と直接的に結びついているにもかかわらず、そしてアマゾン神話では「キュイール・ド・リュシー」の似合う女性がまたがるものであるにもかかわらず、馬は香水の世界ではほとんど表象されることはない。馬の糞から立ちのぼるほかほかとした煙を連想させるためだろうか。数少ない例外はマルク=アントワーヌ・コルティシアート、この元障害馬術競技優勝者が愛馬へのオマージュとして捧げた(コラム「調香師、自らを語る」に詳しい)「エキストリウス」(パルファン・ド・エンパイア)、そして干し草とタンニンの香りが馬の「たてがみ」を想起させることでより直接的な形で動物の存在をほのめかす、マチルド・ローランの「ルール・フグーズ」(カルティエ)くらいなものだ。ゲランは「マルリーの馬」をブランドのシンボルのひとつとして採用したが、「アビ・ルージュ」(1965年)ではこの彫像をハンターが乗るための狩猟用の馬のイメージに重ねた。一方エルメスは、貴族が乗るところのもの、という角度でしか馬を扱ってはいないが、そのことは「カレーシュ(小型四輪馬車)」(1961年)や「エキパージュ(馬車)」(1970年)などによく現れている。同じエルメスの「アマゾン」(1974年)に関しては、フローラル・グリーンな香りでいかにも「70年代っぽい」感じだが、レザーや干し草のニュアンスはいささかたりとも感じられない。

先ほどのカルティエの例でもそうだったように、エルメスが馬という主題、およびその動物性を完全に受け入れるのは(完全にというのはつまり、嗅覚的に、ということだが)もっとずっと後になってからのことだった。すなわちクリスティーヌ・ナジェルによる、ブランドにとって初となる偉大なるフェミニン香水「ギャロップ」(2016年)の登場まで待たなければならなかったのだった。しかしアンジュラン・プレルジョカージュによって振りつけ演出された広告映像には、馬のたてがみの影すら映らなかった。しかしその映像のなかで、出演する女性はさながら騎手から馬それ自体へと変じるかのように描かれてる。大きな歩幅で、馬が後ろ脚で蹴るかのように舞踏し、筋肉が躍動する。ナジェルによるやわらかなバラの香りが生々しいレザーの香りへと絶えまなく変じ続けるのと同じように、その「ギャロップ」するその女性もまた馬への変身を運命づけられているのだろう。まるでシャーマニズムの儀式であるかのようだ。香水の力によって、魔術や動物への変化を欲するものたちの本性がそこで暴き出されるのである。

鳩と毒蛇

仲間に呼びかけたり、誘惑したり、あるいは縄張りのマーキングのため、さらにはメッセージを送受信したり、などなど……。鳥と香りの関係は音楽におけるそれに似ている。すなわち一方は歌い、もう一方は音符(ノート)と和音(アコード)を提供する。そして鳥が飛び立つことによってその音楽は演奏されるのだ。しかしながらその鳥は、香水の表象においてはほんの一瞬、さっと通りすぎただけであった。とはいえその一瞬のうちに最も偉大な香水のひとつ、すなわち1951年にマルク・ラリックによって制作されたニナ・リッチ「レール・デュ・タン」のボトルの上に意匠として現れたのだから、その存在感は大きい。平和と純潔の象徴である鳩が、太陽の光を思わせる、まるで重力から解き放たれたかのように軽やかなこの香りのためにエンブレムとしてあしらわれたのだった。大戦期に作られた多くの作品とは異なり、この香水にはラストノートに甘い香りや動物的なところがなく、そのような特徴から、まだ若い少女たち向けの商品として長らくのあいだ人気を博したのであった。現在では「ニナ」がそれに取って代わっている。ハリー・ポッター世代にとっては鳩よりも、同香水のスポットCMで登場する白フクロウのほうが親しみがあるだろう。

聖霊としての鳩とはまさに正反対の性質を持った象徴である蛇は、サタンの化身であるとともに、猫と同じく魔女の使いであり、この香水の動物図鑑のなかにも頻繁に登場する動物である。そしてこの蛇は香水の持つ二面性を、すなわち気高く咲き誇る花であると同時に誘惑のための武器ともなる、そのような両義性を改めて浮き彫りにしてみせる。ヴェイユ「コブラ」(1932年)からパコ・ラバンヌ「ピュアXS・フォー・ハー」(1932年)のボトルデザインにいたるまで、さらにはバイ・キリアンより2012年にリリースされたシリーズ作品「イン・ザ・ガーデン・オブ・ゴッド・アンド・エビル」においては、失楽園を意味するその名が示す通り、蛇は誘惑の象徴として立ち現れる。2008年の「ヒプノティック・ポイズン」のキャンペーンでモニカ・ベルッチが肩にパイソンを巻きつけていた場面が示唆するように、きつく締めつけることは誘惑的な抱擁ともなるが、ともすれば命に関わる危険もあるし、何よりも蛇には毒がある。

見た目的にポップで遊び心があるものとしては、ボトルの上で2匹の蛇が絡み合う(1匹は金色でもう1匹はカラフルな色の蛇)「ニキ・ド・サンファル」(1982年)が挙げられるだろう。香水と同名のこのアーティストの作品において蛇は繰り返し登場するモチーフとなっている。これを単なる文化商業的戦略の一環であると見なすこともあるいは可能かもしれないが、自伝『わが秘密』(ラディフェランス社、1994年)をひもとけば、彼女が「蛇たちの夏」と呼んでいるものが父から暴行を受けた夏であるということが立ちどころに分かってくる。この香水の収益はトスカーナに設立が予定されていた彫刻庭園「タロット・ガーデン」の建設資金にあてられ、ニキ・ド・サンファルはこのプロジェクトに生涯をかけて取り組むことになるのだった。おそらく蛇がタロットと同じように異なる多くのものを象徴するものであったということも関係していたのであろう。後述する彼女の最後の作品を毒蛇の表象を通して解釈した調香師のヴェロ・カーンが「再生と知の象徴であると同時に、治癒と死、そして宇宙と混沌の象徴」といった言葉で表現していたように。2018年に78歳でこの世を去る前に、この独立系芸術家は「ナジャ」という、1930年代のタバコの銘柄の名を冠した作品を、10年前から取り組まれていた連作の最終作として構想していた。この「ナジャ(Naja)」という語はサンスクリット語では「ナーガ(nāga)」となり、よく知られたように毒蛇を意味するこの言葉こそがこの作品を表す属性となっている。花粉の香りを思わせるフローラルかつドライなノートは、香水の黄金時代を象徴するキャロンの「タバック・ブロンド」、あるいはモリナールの「ハバニタ」を彷彿とさせる。ビチュミンと蜜が濃密に香り、はるか昔の、古代エジプトの時代を想起させるような、そんな香りだ。

今や禁止されたものとなった動物性ムスクの存在をほのめかす、セルジュ・ルタンス「ムスク・クビライ・カーン」がこの流れの中心となった。

ニッチフレグランスに見る動物崇拝

前述の黄金時代には、動物由来成分は何の問題もなく香水のフォーミュラのなかに組みこまれていた。エレガントな女性たちは決して外国の動物たちの下半身からむしり取られた分泌液を自らの肌の上に塗ることを目的としていたわけではなかったため、ブランドも動物由来成分が使われているとそこでわざわざアピールする必要もなかったのだ。その後、動物の苦痛を配慮する意識の高まりや健全さを志向する市場のアメリカ化も相まって、これらの成分は次第にパレットのなかから排除されていったのであった。こうして消え去りつつあった動物たちに再び息を吹きこんだのがニッチフレグランスであった。香水の始原へと立ち返ることをモットーに掲げるこの業界のアウトサイダーたちは、香水瓶から消えてしまったノートの復活を求めている。今や禁止されたものとなった動物性ムスクの存在をほのめかす、セルジュ・ルタンス「ムスク・クビライ・カーン」がこの流れの中心となった。

大手ブランドの無難な新作ラインナップに飽き飽きしていた香水愛好家たちも、クラシックな香りに目を向け始めていた。人類学者アニク・ルゲレーの言うところの「非身体的な」現代香水に慣れきった鼻にとっては、まさに身体そのものの香り、そしてその身体から出る分泌物の香りは驚くべきものであった。大手メーカーからは用済みのものとして締め出されたその動物性は、今やブログや専門フォーラムのユーザー、そして一部のクリエイターたちにとっての崇拝の対象となっている。一例としてはデザイナーのフィリップ・ディ・メオのブランド、リキッド・イマジネールのためにカリーヌ・ブアンが制作した「ポー・ド・ベット(獣の肌)」および「ベル・ベット(美しき獣)」、あるいはビンテージ香水のブログ運営者、バーバラ・ハーマンが設立したニッチブランド、エリ・パルファンのためにアントワーヌ・リーが手がけた「マ・ベット(私の獣)」などが挙げられるだろう。パルファン・ド・エンパイアの「ムスク・トンキン」では、マルク=アントワーヌ・コルティシアートが、甘くパウダリーな、ほとんど蝋に近い蜜の香り、そこへほんの少し汗を思わせる塩味のニュアンスをプラスした、まさにタイトル通りの香りを見事に再現した。もし大型の猫科動物が果実や甘い樹脂を食べたなら、きっと毛皮からはそのような匂いが香ってくるのだろう。

もはや動物性は単なる象徴のレベルにとどまるものではなく、それ自体が独自の嗅覚的テーマをなしている。そのテーマとは、禁じられたものを侵犯する、ということであり、そのような考えがかえってファンたちの心をくすぐるのである。動物的香りが禁忌を思わせる理由としてはまず第一に、そのような香りは慣れていない人々の鼻にとっては性的行為を思わせるかのような、そんな攻撃的で不快なものに感じられるからである。そして第二に、そのような香りは年老いた人々の匂いを思わせるからである。というのはとても長い年月にわたる愛好家しかこの種の香りを使っておらず、ほとんどの香水が20年もしくは30年のあいだ動物性原料を使っていないことを考えれば、これは当然であろう。そして最後に、これらの香りは動物由来成分を使用するという、動物の毛皮を着用するのと同じくらい強力なタブーを犯すことを前提としているからである(そのことについて論じたデルフィーヌ・ド・スワールの記事も参照されたい)。

コロラド州を拠点に活動する独立系調香師・嗅覚芸術作家のドーン・スペンサー・ヒュウウィッツは、シリーズ作品「レトロ・ヌーボー」におけるシベットやカストリウムの使用、そしてビンテージ香水から受けた影響を隠すことなく認めている。例えば、バルサム、カストリウム、スパイスといった香りで満たされた彼女の「ローブ・ド・ジベリン」には、ヴェイユの「ジべリン」の影響が色濃く現れているという。そしてまさにヴェイユの作品と同じ名前を重ねた「チンチラ」は、「シベットと蜂蜜がその香りの基調をなしている」スキャパレリの「ショッキング」からもインスピレーションを受けたという。「私は毛皮の肌触りが表現できればと、本気で思っていたのです。そしてそれこそが、これらの美しい過去の作品を糧に得られたひとつの新しさだと考えています」と彼女は2017年6月、ブログ「DSHノート」のなかでコメントしている。こうしたシミュラークル(訳注:単なる複製にとどまらない複製、オリジナルよりオリジナルらしいコピー、といったものを指す、思想家・哲学者のジャン・ボードリヤールによって提唱された概念)の論理が極限まで押し進められたのは、「エトール・ド・ヴィゾン(ミンクのストール)」においてである。本物よりもビンテージ風な香り。本当にその掘り出し物をアンティーク市場で見つけてきたかのように、彼女は「それを着用した人々から香る微細な匂いのニュアンス」までも再現している。

もはや動物性は単なる象徴のレベルにとどまるものではなく、それ自体が独自の嗅覚的テーマをなしている。そのテーマとは、禁じられたものを侵犯する、ということであり、そのような考えがかえってファンたちの心をくすぐるのである。

動物世界へのノスタルジー

より直接的な形で動物たちの姿を追い求めるのは、カナダのヴィクター・ウォンだ。もとはビデオゲームのデザイナーだったウォンは、香水についての知識や教養はもっぱら香水系ブログを始めとしたオンラインから学んでいた。2013年にブランド、ズーロジスト(動物学者)を設立すると、まさに彼自身の動物園を香水ボトルのなかに建設し始めたのだった。ラインナップには、コウモリ専門の神経学者でもある調香師、エレン・コーヴィによる「バット」、そしてアントニオ・ガルドーニ作「ティラノサウルス・レックス」などがある。ガルドーニのまるでそれ自体が毛皮のようなあの神々しいあごひげは、それだけでインスタグラムのアカウントをひとつ作るに値するだろう。またこの建築家にして調香師、ユーモア作家でもある男が自身のブランド、ボーグのエンブレムとして採用したのがカメムシであるということにも目を走らせておくべきであろう。

この香りの動物園は、完全なる作りもの、と言うべきもので、事実ズーロジストの作品のなかには動物由来成分は見当たらない。これに関してはウォン自身も「良い香りを作る目的で動物に苦痛を与えることを、私たちは決して望みません」と明言している通りである。ただしここで例外となってくるのは動物への残虐行為をともなわない蜜蝋とヒラセウムで、ヒラセリウムに関してはそもそもが、アフリカに生息する小型哺乳動物でゾウの近縁でもあるハイラックスの排出した尿が化石化してできたものである。なおこのハイラックスに関しては同名の香水が作られそれ自体がひとつのテーマともなっている。こうしてヴィクター・ウォンは「キャメル」「マカク(ニホンザル)」「ライノセラス(サイ)」などといった、いかにも現実離れした動物たちの作品を世に問うてみせるのだが、そんな彼自身はといえば極めてリアリストで、「物珍しい動物の香水は確かに話題にはなりますが、そうした一時的に加熱するだけの話題性が売上げにつながるかと問われると疑問が残ります」と、そんな風に2016年10月『ニューヨーク・タイムズ』の記事でレイチェル・サイムに語っているほどである。

 私たちはなぜこれほどまでに動物的香りに魅了されるのだろうか。ビンテージ香水への関心のためか。そしてそのビンテージ香水のなかに使われる動物性香料によって、ドーン・スペンサー・ヒュウウィッツが言うように「私たちが欲望を抱くようプログラムされている豊満なボディと、熱を帯びた官能性」がそこへ付与されるためなのか。それだけではないだろう、と彼女は自身のブログのなかで述べたうえで、次のような仮定を提示する。すなわち、ウード、この植物性でありながらレザーや馬糞を思わせる香りを持つ、この成分に対する根強い人気が、人々の鼻を動物的な香りへと順応させることに寄与したのではないか、と。しかしここで問いたいのだが、こうした動物的な香りの解釈云々を超えて、この第6次大量絶滅時代にあってはもはやそのような香りへの興味それ自体が、私たちがかつて取り結んでいたが今や失われてしまって久しい、動物たちの世界との親密な関係性へのノスタルジーを表しているとは言えないだろうか。決して檻のなかの猛獣の匂いをかいでみたいと望むわけではない。しかしスクリーンとピクセルに取り囲まれた私たちの世界においては、嗅覚を養うという行為そのものがすでにして、動物的存在へと変身することへの憧れを示しているとは言えないだろうか。そしてそれは同時に、目には見えない情報の流れ、すなわち匂いの痕跡を探し求めることによって世界に存在するための別のありかたを希求することでもある。あるいはもっとシンプルに、それはただ単純に匂いを感じたいという欲求でもあるのだろう。そう、まさに一匹の動物がそう欲するように。

「調香師、自身を語る」

「猫の匂い」イザベル・ドワイヤン

「それは匂いをかごうするときは音もなく逃げ去り、気にかけていないときに限って戻ってくるのでした」

「私は幼少期をポリネシアで過ごしました。家でも何匹か猫を飼っていましたが、猫たちの匂いが私の気を引いたのはそのときではありませんでした。それは私がイジプカ(香水化粧品食品香料国際学院)を卒業した後のことでした。友人宅にお茶を飲みに行ったところ、その友人が猫を飼っていたのです。突然、信じられないほど繊細な香りが鼻先をかすめました。私はその正体を探しましたがその日は結局むだ骨に終わり、というのもその香りが猫から匂ってくるとは思ってもみなかったのです。次に猫が私の膝に乗ってきたとき、そこでようやくその匂いが猫の毛皮から来るものだと気づきました。信じがたいほど素晴らしく、洗練された匂いに感じました。まず思い浮かんだのはエバーニルです。苔類や地衣植物の匂いを持つこの分子がガーゼか何かに包まれているような、そのような感じがしました。

この匂いに取り憑かれた私はラボに戻ると手探りのまま、さまざまな試みを始めたのです。毛皮の匂いを再現するためにエバニールに組み合わせる成分を思案していたところ、それをかぐときにはいつもクマのぬいぐるみが思い浮かぶ、そんな成分があったことを思い出しました。ムスク・ケトンです。だんだん良い感じになってきましたが、その匂いがもっと際立つようにする必要がありました。そこでやわらかく動物的なベータ・イオノンを付け加えましたが、いささか複雑すぎる感じになってしまいました。もっと香るけど香りすぎない何かが必要だと思いました。香りまではいかない、ちょっとした印象を付け加えるような何かが。私はイオノンを取り除き代わりに少量のアンバーグリスを入れてみました。アンバーグリスはときに非常に強く香りますが、また別のときにはほとんど何も香らないこともあるような、そんな成分です。その意味ではどこか猫と通ずるところがあります。かごうと思ったときには音もなく逃げ去り、気にかけていないときに限って戻ってくる、そんな匂いです。結果は悪くはないものでした。ほとんど完成に近かったと、そう思っております。というのも、完璧ではないほうがいいのです。何ごとにおいてもまだ不可能だという部分が残されていたほうがよいのです! かくしてレネの『ランチマティエール』ができあがりました。私はこの『猫のアコード』をグタールの『デュエル』を始めとした複数の香水に使用しました。ですが私は何度もそこへ立ち戻り、改良を加えることでしょう。私にはそのことが分かっています。なぜかって、私の執念はまだ消えていないのですから」

「馬の匂い」マルク=アントワーヌ・コルティシアート

「その吐息はビロードのようになめらかで、バルサムのようでいて、ほんの少しベンゾインを思わせる匂いがありました」

「馬は私の人生でした。モロッコのカサブランカで受けた最初の乗馬レッスンのことをよく覚えています。アラブ馬に乗ったのですが、そのとき私は確か8歳か9歳くらいだったかと思います。そのとき私は瞬時に、これが私にとって欠かせないものになると確信しました。

厩舎に足を踏み入れるたびに私の体は打ち震えます。その場所に果てしなく広がる香りの宇宙は多彩で、力強いものです。馬の体からは汗、糞、尿、藁、干し草、たてがみ、などといった匂いが混じり合ったやわらかなブレンドが発散されています。その毛並みから蹄まで、この動物は毛皮的ノートからニュアンス豊かな甘さ、それにカストリウムといったノートまで、そうした多彩なさまざまな香りのアコードを持っています。毛のなかににじんだ汗の匂いでさえ人間のそれとちがって決して不快ではありません。馬の背中と鞍のあいだに敷かれたマットから漂ってくるのは熱のこもった、つんとした匂いです。たてがみからは、ほんのりとフェノールのような香りがし、ナルシスやスチラックスのなかに認められるようなファセットとなっています。ちなみに私はこのファセットを『タバック・タブー』(コルティシアートが自身のブランド、パルファン・ド・エンパイアのために制作した作品だ)のなかにも取り入れておりますが、太字のマーカーペンや、厩舎の掃除用消毒剤のクレシルと同じ匂いがします。

 蝋、ワックス、タール、レザー。馬具置き場の香りもまた忘れがたいものです。樺の木の樹皮や、焼けたスチラックスの匂いがします。新鮮なニンジンの香りも漂ってきます。馬に対し褒美として与えられるものですが、きりっとしたフレッシュさと果実味のある側面がある一方で、葉の部分に関してはより植物的で、コリアンダーやアルデヒドを思わせます。

ですがこの香りの宇宙のなかで私が最も感動を覚えるのは、何と言っても馬の吐息でしょう。熱と甘さの入り混じった、嗅覚と触覚を同時に呼び覚ますような、何とも言えない感覚を覚えます。健康な個体の吐息には、ビロードのようになめらかで、バルサムのようでいて、ほんの少しベンゾインを思わせる匂いがあります。そしてその匂いこそが、私が「エキストリウス」のなかに再現したいと思っていたものなのです。この香水の名は私の最良の愛馬にちなんでいます。あのビロードのような匂いは、私がその馬の鼻先に顔を近づけたときにいつも感じていた匂いでした。人々が私の作品に期待したであろう藁やレザーの香りはそこにはありません。実際、『エキストリウス』はあまり売れていない香水です。手に取ってくれるのは同業者か、あるいは嗅覚的な興味関心に優れ、アイリス、アンブレット、サンダルウッドといった、あまり一般的とは言えないそのノートを適切に評価し楽しむことのできる、そんな通な愛好家くらいなものでしょう。ラテン語で『輝く馬』を意味するその名前が私は気に入っています。その名前を難しいと思う人もやはりいるようで、香水名を忘れた人たちは『アイリスの香水』『馬のやつ』『赤いラベルの香水』と言いながら買いに来ます。『名前を変えればもっと売れるのでは』とアドバイスされることもありますが、とんでもない! エキストリウスこそ香水にふさわしい名前なのです」

翻訳:藤原寛明

Back number