キャロンの「タバ・ブロン」(1919年)やモリナールの「ハバニタ」(1921年)において、香水のコンセプトとして取り上げられているタバコが本当になかに含まれているかどうかはほとんど重要ではなかった。これらの香水の登場が真にエポックメイキングだったのはそれまで男性に属するものと見られていたタバコを女性の側に取り戻したことであり、かくして髪を短く切りそろえたボーイッシュな女性たちは時代精神によって押しつけられた女性性にノーを突きつけ、性別という境界を撹乱してみせたのだった。「キリスト教世界において、香水の使用はあくまでも宗教的儀式に限られておりました。したがって世俗的生活においてそれを使うということ自体がすでにひとつの侵犯行為なのです」とジボダン香水学校プログラムにおける責任者、ウジェニー・ブリオはその点に注意をうながす。「そこへさらに薬物へのほのめかしが加わると、禁を犯しているという錯覚にますます拍車がかかり、そのぶん余計に魅力的に、欲望をかきたてるものとして感じられるというわけです。またこのタバコというケースは、女性が口に何か物をくわえたまま立ち振る舞う、という身振りを想起させます。とても強く印象深いイメージですが、あまり品がいいとは言えない身振りです。ですがまさにこの点において、そのボーイッシュな女の子たちは女性としての解放の度合いをもう一段階引き上げることに成功していると言えるでしょう」。 スペインのブランド、パレラから1933年に発売された「コカイナ・エン・フロール(花ざかりのコカイン)」の例が暗に示しているように、中毒物質と香水の関係はその時代の社会的状況を映し出すひとつのバロメータとして考えることができるのかもしれない。同香水の広告のなかで目にされる「中に薬物は含まれておりません」という注意書きは明らかに、健康への懸念を逆手に取った確信犯的なプローモーション戦略であったのだろう。今日においては考えがたいことであるが、コカの葉はもともと良いイメージを持っていた。タバコや、薬局でも販売されていたマリアーニ・ワインを始めとした強壮飲料のなかにも刺激剤として添加されていた。「『コカイナ・エン・フロール』の持つあの抗しがたい魅力によって象徴されていたのは、その香水が登場する直前の時代、すなわち『狂騒の20年代』という、アメリカに限らず全世界が苦難の時を迎えていたそんな時代に対するひとつの異議申し立てでした。またアメリカでコカインが禁止され始めた時期とも一致し、それへの抗議も含意していました」と『フランス香水100年の名香』(HM出版、1998年刊)の著者、マイケル・エドワードはそうコメントする。これとほぼ同じ時代背景として十九世紀末ごろからじょじょに化学による技術が発展し、現在香水に使われているさまざまな匂い物質とまったく同じように、こうしたコカインなどの中毒物質も分離、合成できるようになったということにも目を走らせておこう。この化学の進歩によってさまざまな分野で相互作用が起こっていることを考えると、そうしたすべてが一定のロジックに基づき連鎖しながらつながっていっていることが改めて確認されよう。
ヒッピーの香り
とはいえこの香水による反乱もそう長く続くことはなく、まもなく第二次世界大戦という大きなうねりによってすべてがなすすべもなく押し流されていくことになるのだった。そしてそうした大いなるトラウマを乗り越えた後にやって来たのは上記のような挑発や扇動ではなく、幸福の再発見を目指す時代であった。カルヴェンやクリスチャン・ディオールといった若きデザイナーたちは彼らの掲げる「ニュールック」で人々を夢中にさせた。そうした新しいシルエットのデザインを生み出した彼らは、そのデザインに合わせた香りを提案するとともに、それらの香りにふさわしい名前をつけたのだった。すなわち「マ・グリフ(私のサイン)」「ミス・ディオール」、さらに上記2名のデザイナー以外のものとしてはロシャスの「ファム(女性)」、ニナ・リッチ「レール・デュ・タン(その時代の空気)」などなど。しかしそうした生きる喜びも60年代に入るとアルジェリア戦争、そしてベトナム戦争とともに消え去っていってしまう。チェコスロヴァキア民主化の契機となった1968年のプラハの春、そして同年パリやナンテールで学生たちが蜂起した五月革命など、各地で若者たちによる反乱が次々と起こった。既成の秩序が揺らぎ、ヒッピーたちの首からはフレッシュなパチョリがふんぷんと香り、ついにはそれがウッドストック・フェスティバルの香りそのものとなるほどだった。パチョリのエッセンシャルオイルの香りは強く、ジョイントを吸った匂いをごまかす手としては最適だったのだ。やがてそうした薬物と関連づけて語られることこそじょじょに少なくなってはいったものの、少なくともパチョリはある種の反抗や転覆の象徴であり続けた。「そうしてヒッピーの匂いとなったパチョリには東洋由来の成分が多く含まれ、そのためお香やサンダルウッドを思わせる香りがします」と、そうコメントするのは『ヒッピーの世界』の著者のひとりである、社会学者のフレデリック・モネイロンだ。彼らはシトロエン2CVに乗ってゴアやカトマンズまで旅をし、ほうぼうをめぐってはありとあらゆる種類の人工の楽園を探し求めたのだった。そうした向精神薬の使用が彼らのあいだに広まったのは、アメリカのカウンターカルチャーから派生した神秘主義の流行が影響していた。 そしてこのような流れこそが、イヴ・サンローラン「オピウム」が受け入れられるための下地を作ったのであった。「オピウム」は1977年10月フランスで発売されるとその後ヨーロッパ各地でヒットした。「アヘン」を意味するその名はサンローラン自身が決定したもので、同ブランド香水部門を所有する米企業チャールズ・オブ・ザ・リッツ社から猛烈な反対を受けたものの、強引に押しきられる形となった。ボトルはピエール・ディナンによってデザインされ、日本の「インロウ(印籠)」がモチーフとされた。古来サムライによって携帯された小型容器として知られ、そのなかにはいくらかの香辛料や、まさに苦痛をやわらげるための「オピウム(アヘン)」がしまわれているとされた品物である。その「オピウム」の初期の広告キャンペーンは、「イヴ・サンローランに心奪われた女性たちよ」というスローガンとともに展開され、これが即座に話題となった。そうして瞬く間に成功を収めたが、高額な商品であったにもかかわらず1978年には早くも在庫切れが続出し、それほどの大ヒットになるとはよもや誰ひとりとして予想してはいなかった。「ジャンルー・シーフの被写体としてカメラの前で裸でポーズを取り、ドラッグにもおぼれていたと噂されていたこの若きデザイナーは、若い女性たちにとってとてもエキサイティングな魅力を持っていました」とマイケル・エドワーズも証言する。「危ういまでの大胆さと新しさ、それこそが彼の魅力だったのでしょう」。
こうした成功を受けて、「オピウム」は大西洋を越えアメリカへと渡った。とはいえ所変われば事情も異なるものである。「オピウム」を待ち受けていたのは激しい抗議だった。その不遜な商品名がアヘン戦争によって苦しんだ歴史を持つ中国人コミュニティへの侮辱にあたるとして、ライバル会社から攻撃を受けたのだ。同種の抗議はニューヨークでも起こり、イヴ・サンローランの店舗の前では同香水を撤去せよとの声が上がった。しかしそうしたスキャンダル性がかえって
話題を呼ぶこととなり、かくしてジャン=ルイ・シュザックとレイモン・シャイヤンによって構想されたこの香水の名はそのオリエンタルかつスパイシーな香りとともに、すなわちかつて流行したお行儀のよいフローラル・グリーンなノートとは完全に袂を分かったそんな香りとともに、以前にも増して人々の口から口へとのぼるようになったのであった。「『オピウム』は香水の歴史における最初の大ヒット商品であると呼ぶべきでしょう。初年度だけで3,000万ドルという驚異的な売り上げを叩き出しました。これは記憶するに値することだと思うのですが、当時の『ワーキング・ガール』たちが自分たちのなけなしの給料を投げ打ちどうしても手に入れたいと願ったのがこの香水だったというわけなのです」という旨をマイケル・エドワーズは強調する。この「オピウム」の成功の後を追って、ランボルギーニの「キフ」(1980年)やヴィージャガの「ハシシ」(1983年)などといったやはり麻薬に着想を得た香水がいくつか登場したが、これらはどれもあまりぱっとしなかった。
巨額の売り上げとスキャンダル性、何よりその(オードトワレにして19%という)強い濃度によって「オピウム」は、1980年代というひとつの時代全体が飲みこまれることになる狂熱の到来を予告していたと言えるだろう。細かいウェーブが特徴のワッフルヘアー、各都市のクラブで繰り広げられる夜通しのパーティ、ニューヨークではスタジオ54で、パリのパレスで、そしてロンドンではアナベルズで、怪しげなネオンに照らされたトイレには、誰かが夜の果てまで踊り続ける力を得るべく吸ったコカインの名残りである、あの白い線が残されている……といったように。衝動的な感情に身をまかせたものたちからほとばしる汗の匂い、そしてそこへ加わる「オピウム」の香り、さらに「ポワゾン」と「オブセッション」(このふたつはどちらも1985年の発売だ)までもが重なり合い、それらすべてが混ざり合った匂いにダンスフロアは満たされる。若きアメリカ人クリエイター、カルバン・クラインによるその「オブセッション」は、オリエンタル・アンバーな悩ましげな香り、そして意想外な命名といった点においてやはり「オピウム」の路線を踏襲するものだった。その発売から数年後には、満ち足りなさに息をあえがせた裸体のケイト・モスをアイコンにしたイメージビデオが撮影されることになる。当時のアメリカではジェーン・フォンダによるエアロビクス講座が大流行しており、そのようななかで欲望をそそる魅惑的な体をナルシスティックに誇示するかのごときこの「オブセッション」の香りを身にまとうということは、そうしたスポーティで健全なイメージの真逆を行くことだった。
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