AROUND THE WORLD

By Eugénie Briot

パリ、エレガンスの都

ウジェニー・ブリオ

技術革新、産業動員、そして広報活動。十九世紀、香水産業において世界の中心となるために 光の都パリが取った戦略について検討する。

1900年に万国博覧会が開かれた地が、まさにそのパリであった。この一大イベントではフランスの香水産業が華々しい勝利をおさめ、当時の企業家たちはその偉業を高らかに賞賛したのであった。「フランスの香水産業の優位性は今や世界中に認知されていると言ってよいだろう。[...]フランスからの輸出量は輸入量のおよそ25倍にもおよぶ。世界中のどの市場においても最高の品質を備えた高級品はフランスからのものであり、その点においてもはやライバルは存在しない」。審査団による報告書のなかにはそのような文言を見て取ることができる。とはいえこのようなフランスの優位性が一朝一夕に築かれたわけではもちろんなかった。古くから芸術の中心地として華々しいイメージに包まれ、近代以降はファッションの、そして香水の都としても名声を博することになるパリを擁するこのフランスという国がかくなる地位までのぼりつめたのはただひとえに、十九世紀全体を通じて辛抱強く展開された事業戦略のたまものだった。そしてその戦略においては経済的側面ばかりではなくイメージや評判といった要素も重要視されていた。

パリが万博において世界に示してみせたこの確固たる優位性は、実際その100年前にはまったくもって脆弱なものにすぎなかった。生産性や創造性といった点のみならず、センスのよさ、さらにはエレガンスといったことにかけても、パリは国内では南仏と、そして対外的には英国やドイツと張り合いながら自らの地位を獲得し、さらにそれを確たるものとして維持するべく長きにわたって苦戦を強いられてきたのであった。そのような状況下でいかなる戦略が取られたかに関しては以下に詳述するが、まさにその戦略によって、パリは流行の発信地としての地位を長期的に確立することができたのである。まずは生産性に関して、パリがいかにしてその優位性を勝ち取るにいたったかを見ていこう。フランス革命後、フランスの貴族たちの購買意欲は国内ではなく英国のほうへ向いていた。石けん製品の高い人気に追い風を受け、当時は英国の香水産業が市場を支配していたのだ。一方国内での立ち位置としては製造に関しても商業に関してもパリは南仏で営まれる産業の中継点といった役割を担うにとどまり、石けんの製造は当時フランスでも盛んに行われていたが、その原材料の生産も石けん製造それ自体も、あくまでもその中枢は南仏に集約されていたのだった。それに関しては化学者のジャン・アントワーヌ・シャプタルも、1819年に出版された自著『フランス産業論』のなかで「1789年当時、日用品としてフランス国内で消費される石けんのほとんどすべてがマルセイユの工場で製造されていた」と記している。

こうした南仏の産業に対抗し得るものとして、化学の登場は決定的な役割を果たした。化学の力によって、マルセイユがオリーブオイルから作る石けんと同じくらい容易にかつ高品質で、動物性脂肪から石けんを製造できるようになった。こうして1820年代からはパリでも高品質な製品が作られるようになる。1844年のフランス産業博覧会における審査員報告書では、化粧石けんがもはや「芸術の一部門」の域に達していることに言及されるとともに、「特にパリの製造業者たちは、他のどのような競争相手にも引けを取らない」と記されている。その後5年間ほどのあいだにフランスはイギリスの市場に進出し、ウィンザー石けんと命名された化粧石けんで成功をおさめた。かつて支配されていた相手国の市場に英王族の名にちなんだ製品を売り出すとは、まさに歴史の皮肉と言う他ないだろう。「前回の博覧会以来、この製造分野はフランス国外に新たなる重要な開拓地を見出した。北米および南米、そして英国にもウィンザー石けんは多く輸出された」。1849年の産業博覧会に展示された農業および工業製品に関する報告書のなかにはそのような記述を見ることができる。ある商品が評価される際には決まっていつも、英国市場ではどう受け入れられているのか、という点ばかりが話題に上がる。そのことは英国市場での評価が経済的というよりかは象徴的レベルでの重要性を有していることを意味するとともに、フランス人がいくら自らの優位性を主張しようとも、彼らの目指すべき目標が依然として英国にあるということを暗に示していると言えるだろう。

「ドイツ製=粗悪品」というイメージから脱するために

国際市場の掌握へといたる第二段階は、二十世紀初頭に始まった。合成分子が登場し香水の調合に不可欠なものとして定着するにつれ、パリの市場はドイツの化学に対し、まずは研究の分野で、そしてイメージの分野においても対抗し、支配権を握る必要があった。

1876年にイシー・レ・ムリノーに設立されたド・レール製造所、そして1904年にアルジャントゥイユに創立されたジュスタン・デュポン事業所、パリおよびその近郊に設立された両社は同地域を合成香料の国内生産地として最前線の地位にまで押し上げた。しかしながら、もともと合成成分の多くはドイツの研究成果によってもたらされたものであった。最も重要かつ代表的な例としてアルベルト・バウアーが1888年に開発した合成ムスクが挙げられようが、これはその後の合成香料開発の伴となる成分であった。一方でその他の重要な成分に関しては仏独両国の研究者たちによる共同のもと生み出されていた。バニリンを例に挙げるとすれば、この分子は1874年、ドイツ人研究者のフェルディナント・ティーマンとヴィルヘルム・ハーマンの手によってコニフェリン(主に針葉樹の形成層に見られる分子)を原料に初めて合成されたわけだが、その後1876年、同じくヴィルヘルム・ハーマンとフランス人研究者のジョルジュ・ド・レールの共同によりクローブから得られるオイゲノールを用いた合成法が新たに開発され、こうしてバニリンの生産方法に改良がなされたのであった。またイオノンやメチルイオノンにもこれと同様の動きが見られ、1893年にはドイツのハーマン・アンド・ライマー社とフランスのド・レール社が特許を分け合った(なお両社は現在のシムライズの前身にあたる)。

しかし第一次世界大戦の勃発により両国間の対立感情が激化するとともに、期を同じくして合成香料の経済的重要性も増していき、こうして両国はこの化学という分野においても激しく対立するようになっていくのであった。このときフランスとしては、戦時中の愛国心ゆえに、そして「ドイツ製=粗悪品」というレッテルによって合成香料全般につきまとう否定的イメージを払拭するために、まさにこうした二重の理由からこの香水の化学によってフランス独自の産業を確立する必要があった。それゆえフランスの香水製造業各社は天然素材と合成素材を組み合わせた新たな調合法を生み出すことによって商品に対し高級で質の高いイメージを与えるべく奮起し、上記のごとき固定観念に対し粘り強く抵抗を続けたのであった。「『ドイツが作ったのなら粗悪品であろう』という評判が人工香料に対してもついて回っているが、これは完全なるデマである」と、そう訴えていたのは化学者・実業家のルネ・モーリス・ガトフォッセであった。「というのも、人工ムスクを始めとした合成製品の、今やそのほとんどがフランス製なのだから。それにそうした合成香料は天然の植物が生み出す香りとほぼ同等の高い品質を保持しているのだから」。フランスの製造業者たちによる努力は、すでにファッションの都として名をはせていたパリの知名度によっても支えられていたのだろう。

輸出する製品に関して、製造業各社はより高い付加価値のある商品、すなわちより高く売れる商品に狙いを絞っていた。

高級志向とハイセンス

十九世紀末以降、パリの香水産業は豪華絢爛なベル・エポックの躍動感に息づく、創造と芸術の大都会というイメージに支えられながら、とても大衆向けとは言いがたい高級志向に基づくポジショニングを採用するようになる。関税が不利になると口々に嘆かれるなかでも国際市場において強い存在感を保つために、製造業各社は1870年以降、輸出する製品の質を変え始めた。短期的にはより高い付加価値のある商品、すなわちより高価格で売ることのできる商品を優先しつつ、長期的にはアルコール性の香水にのみ注力し、ポマード、オイル、ヘアローション、香りつき石けんといった商品からはじょじょに撤退していった。こうした選択はその後も彼らの商業的実践に長きにわたって根づくことになる。1915年のサンフランシスコ万博でのフランス人報告者は、ここで行われたのが優れた専門分化であったことを次のように強調している。「フランスの香水産業はこの先もあらゆる海外市場の上に君臨し続けるであろう。[...]われわれは高級品に特化した輸出国なのだ」と。

この戦略の成功は、商品に対し象徴的な価値を与えるためになされた辛抱強い努力のたまものであった。そしてその成功が先の方針変更が正しかったということを証明してみせたのであった。フランス製品の品質イメージを向上させること、そしてファッションの都でもあるパリの名をそのエレガンスの証として宣伝すること、このふたつが戦略の主軸を担っていた。フランス人の気質に特有の直感的なセンスのよさは商品そのものだけではなく、その商品の見せかたやディスプレーにも現れていると主張された。「さまざまな香りを組み合わせ、繊細で多様な香水を作り出すことにかけて、フランス人、特にパリジャンに勝るものはおるまい。パッケージを繊細かつ優美に仕上げる技もまた然り」。「1862年の香水産業」と題された記事のなかで化学者のシャルル=ルイ・バレスヴィルはそう述べた。

文明化の使命

こうした賞賛の言葉はドイツ人や英国人のセンスの悪さを揶揄する言葉とともに用いられることで効果が増した。当時の香水業者が言うところでは、高品質な製品を作ることは英国のメーカーにとってはとてもじゃないが不可能なことであった。それどころか彼らはいい加減な製法で商品を作っており、もはや石けん製造業者の資格に値するかどうかさえ疑わしいとのことであった。1862年のロンドン万博のフランス人審査委員たちにとっては、「英国の香水業者は化粧石けんを作ってなどいない。彼らはただ単に、すでにできあがった石けんを再び溶かして加工し直しているだけなのだ。そのため彼らは石けんがまだ熱いうちに香料を加えてしまう。こんなおざなりな製法では石けんに繊細な香りを持たせることなどできないということは自明の理ではないか」。さらに審査委員たちが述べるところによれば、英国製品に樹脂が10%から30%という高い比率で使われており、その事実は「リネンから衣服にいたるまで、あの独特な匂いがイギリスの全土を覆いつくしている」理由を見事に説明するものであった。一方、フランスで生まれロンドンに移住した香水業者、ウジェーヌ・リンメル(本誌p.14でも取り上げられている)は、1865年にドイツ製の石けんもまた同様に良品質とは言えぬ旨を評している。「ほぼすべてが劣悪なものだと言わざるを得ない。ココナッツオイルを使って製造されているため[...]使うと肌の上に不快な匂いが残ってしまうのだ」。

1855年にビクトリア女王が公式訪問でパリを訪れた際には、雑誌『ル・メサジェ・デ・モード』はこの女王陛下のつけている香水から、後に歴史学者アラン・コルバンが「ムスクがわずかに含まれていることで全体のバランスを台無しにしてしまっている」と評した、そんな趣味の悪い香りが香ってきたとためらうことなく書きたてた。また『イリュストラシオン』誌も1862年、こうしたセンスのなさは英国人に典型的な悪趣味であると糾弾した。このような流れから、以降は、フランスこそが他国の香水文化を教化すべきなのだとする文明化の使命が強調されるとともに、フランス香水があらゆる国の女性を魅了し、彼女たちを良き趣味へと導き、より節度のある香りを守らせることができると、そう世界に向けて示すことが重要な課題となったのであった。「かぐわしい花々にとっても良好な気候に恵まれたフランスは、今やほぼ全世界に香水を供給している。一方英国人女性はと言えば例えばムスクのような匂いのきつい香りがお好みと見えるが、そのような”不快な悪臭”で自分たちのいる場所を満たしながらも、そんな彼女たちでさえ今やせっせとフランスの香水を買っているのである」と、そう『イリュストラシオン』誌も書いている。

こうして十九世紀を通じてセンスの都としての地位を確立するとともに、パリは続く二十世紀においてもその努力を惜しむことなく、女性誌やそこでの広い広告スペースを通じて、ついにエレガンスの都としての、いや優雅さという概念それ自体を体現するものとしての地位を確固たるものとしたのであった。現在、香水の広告キャンペーンにおいて他の都市が舞台として採用されることも増えていっている一方で、しかし商品としての香水に象徴的価値を付加することのできるこの光の都の、広告塔としての力はいまだ衰えてはいない。ジュリア・ロバーツが2012年の「ラヴィ・エ・ベル」の発売広告のなかで微笑を浮かべていたのはまさにこのパリの空の下であったわけだし、ディオール「ジャドール」の2014年の広告のなかでシャーリーズ・セロンが歩いたのはヴェルサイユ宮殿の鏡の間であった。2015年にはナタリー・ポートマンが「ミス・ディオール」で逃げ去る花嫁を演じてヘリコプターでパリ上空を舞い、「ココ・マドモワゼル」でも散歩したりバイクで走ったりなど、何度もこのパリが舞台となっている。フランスに限らず香水産業そのものが世界規模の展開を見せるなかで、1862年のロンドン万博でフランスの審査員が思い描いた次のような印象的なビジョンは今や証明済みのものと思われる。「香水産業においては、もはやパリ自体がひとつのブランドとなり、世界共通のパスポートであり続けることだろう。今後、永遠に」。

翻訳:藤原寛明

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