長いあいだ、嗅覚は美的経験を誘発しないものと目されてきた。瞑想を呼び起こしたり、あるいは意味を伝達すること、解釈のプロセスを誘引することなどは、西欧の伝統においては視覚や聴覚といった「上位の」感覚だけに許された領分であった。とはいえ日本の「香道」に代表されるように他の文化圏では古くから匂いの芸術は発達しており、そうである以上このような見解は民族的に偏っていると言わざるを得ず、したがって嗅覚に傾倒した哲学者たちにより一世紀にわたり反されるとともに、それによって二十世紀と二十一世紀の芸術家たちが嗅覚に関心を持つことがさまたげられることもなかった。そしてついには美術史家や批評家、キュレーターたちが、匂いの美的性質を意図的に利用した芸術の形式を研究し始めたのである。十九世紀末における総合芸術を希求する機運が受け継がれ、芸術に匂いを取り入れるというアイデアが現実に具体性を帯びるようになったのは、複数の前衛運動がこの問題に注目し始めた二十世紀に入ってからだった。1913年には早くも、イタリアの未来派画家カルロ・カッラが「音、ノイズ、匂いの絵画」と題されたマニフェストを世に問い、五感のなすポリフォニーを絵画へと変換する欲望を表明した。しかし芸術の境界線を押し広げるために複数の感覚形態を刺激する道を実際に切り開いたのは、ダダイストたちだった。「われわれはわれわれの五感すべてを拡張し征服することを望む!われわれはすべての境界を切り開くことを望む!!!」、ラウル・ハウスマンは1932年『プレザンティズム宣言』にそう記した。同年、マルセル・デュシャンはリゴーの香水瓶にラベルを貼り替えただけのレディメイド(既製品)「ベル・アレーヌ、バイオレット水」を発表した。そのラベルにはデュシャンの女性的別人格、ローズ・セラヴィの写真がマン・レイによって撮影されあしらわれていた。そして1938年、非網膜的芸術を模索していたデュシャンは、国際シュルレアリスム展での舞台美術の演出において、芸術のなかに匂いを取り入れることを現実のものとしたのだった。人工の洞窟のなかでコーヒー豆が電気火鉢の上で焼かれ、その「ブラジルの匂い」が空間を満たしていた。
1950年から60年にかけて、フルクサス運動やアルテ・ポーヴェラの芸術家たちがデュシャンの後を追い始めた。芸術家アラン・カプローは『ジャクソン・ポロックの遺産』(1958年刊)のなかで次のように書いている。「絵画を通して視覚以外の感覚にもたらされる暗示に満足していないわれわれは、視覚、聴覚、運動、人々、嗅覚、触覚といったものにとって固有な特殊物質を、もっとうまく利用しなければならないだろう」。以来、芸術家たちは、硫黄(ジャン=ミシェル・オトニエル)、花粉や蝋(ヴォルフガング・ライブ、マリオ・メルツ、ヴァレスカ・ソアレス)、油脂(ヨーゼフ・ボイス)、さらには汚水(ベン・ヴォーティエ)といったものまで、自然に匂いを発する新しい素材をこぞって使い始めたのである。こうして少しずつ、「香りは自由の息吹きのように作品の内部に忍びこみ、芸術に生命力を与える親密な空気となったのである」(シャンタル・ジャケ『香りの哲学』フランス大学出版局、2010年刊)。では今日において、芸術のなかにいかなる匂いが表現されてきたのかという、そのような目録を作ることは可能なのだろうか。いや、そもそもそのような匂いの芸術へと芸術家たちを駆り立ててきた動機、原動力とはいったいどのようなものだったのだろうか。まず第一に考えられるのは、嗅覚の即応性であろう。嗅覚は視覚によってもたらされる距離なしに、より直接的に身体を現実へとアクセスさせることを可能にする。そして考えられるもうひとつの要因は、その芸術がどのように受容されるかは蓋を開けてみるまで分からないという、予測不可能性だ。嗅覚についての普遍的な参照基準がないことはもちろんのこと、文化間と同様に個人間にもちがいがある。匂いは感覚的、感情的、あるいは記憶をめぐる共感覚的経験を引き起こすことを可能にする。そしていくつもの場所を思い出させ、社会、われわれの身体、アイデンティティといったものについて思いをめぐらせることを可能にする。匂いの持つこの変わりやすく移ろいやすい性質は、時間を操るという可能性を与えるとともに、芸術が生命の飛翔を見せるための活力を与える。かくも多くの理由が芸術家たちを匂いのほうへと舵を切るよう駆り立てる。それがいかなる形であったとしても、天然であれ合成であれ、構築されたものであれ生のものであれ、心地よいものであれ嫌悪感を催させるものであれ、彼らはそれらをさまざまな方法で(それが匂いを持つ素材であれ外因性の匂いであれ、液体であれ気体であれ、個別的であれ全方向的であれ)実践のなかに取り入れる。嗅覚は思考や表象の手段に変換されるとともに、匂いを理解することは決して知的で理性的なものではあり得ないという予備判断を解体する。
匂いの持つ物理的特性は、展示や保存の条件を始め、芸術をめぐる言説や市場のなかに嗅覚芸術がいかに統合され得るのかといったことまでを含む、一連の具体的な問題を示唆している。嗅覚作品の制作自体はかなりの発展を見せているが、その一方で嗅覚芸術の歴史や依拠すべき理論が確立されていないなど、この主題をめぐる批評装置に関してはまだかなりの欠落がある。これらの作品にアプローチするために、批評家たちは回りくどく、しかし明らかに中途半端な方法で対処する。すなわち、匂いなど副次的な主題にすぎないと誤魔化すことによって、素材の形態から匂いを切り離してしまうのである。「今日の批評家たちは、嗅覚作品において根源的力をなしているはずの匂いについてはほとんど語りません」、『博物館的、嗅覚的専門知識のために』と題された論文を執筆中のマチルド・カステルはそうコメントする。加えて嗅覚芸術の特性であるこの消え去りやすいという特徴は、嗅覚芸術がアート市場に参入することやコレクションされることを難しくしている。「匂いを主題とした芸術を認知することの難しさの大部分は、アーカイブ化が非常に困難であるということに起因しています。したがってこの種の芸術はその価値を失う可能性を常に抱えています。ここで問題となってくるのは、物質としての状態(オブジェクト性)がどのようなものであるかということです。匂いそれ自体を価値あるオブジェクトとして考えるとなると、とたんに困ったことになってくるわけです」、ロサンゼルスのインスティテュート・フォー・アート・アンド・オルファクション(芸術嗅覚学院)創設者のサスキア・ウィルソン=ブラウンはそう説明する。傑作とは永遠に形をとどめた堅固なものであるというそのような伝統的な考え方からは、嗅覚芸術は完全に逸脱してしまっているのである。それを売るには作品の永続性を担保するためにコンセプトやフォーミュラもいっしょにして売る必要があるし、永遠にその作品を香らせられるように十分な量を生産する必要もある。そしてそれが展示されるときには、空間内における匂いの拡散に関するものとして、その展示空間の外郭、空間と時間の関係、匂い同士の干渉、気象条件、来場者者の数、メンテナンスなどといった、さまざまな問題が浮上することになる。
ダミアン・ハーストの「ア・サウザンド・イヤーズ」。この怪物的な虚栄心、すなわち牛の頭部から発せられる病的なまでの悪臭が多くの来場者たちを震撼させた。
毒と化粧品、およびそれにともなう文化的反射について
芸術における嗅覚的刺激には、ときに破壊的ニュアンスが強調される。不快な、それどころか有毒な匂いが、嫌悪感による反射、防衛本能による反射を誘発する。そのような匂いが人にショックを与えるために使われるのである。1965年にはエドワード・キーンホルツがインスタレーション「ザ・ビーナリー」において、故郷ロサンゼルスのバーの喧騒と匂いを再現するために早くもアルコール、油脂、尿、タバコといったものを利用している。1995年にはダミアン・ハーストが、巨大な灰皿にタバコの吸い殻と空き箱があふれかえった「パーティ・タイム」を通して、タバコに見られる有毒的なところと祝祭的なところ、それらを合わせ持つ両義性を表現したのだった。しかしこのようなタバコのインスタレーションで最も巨大なものはぺーター・デ・クーペレの「スモーク・ルーム」(2010年)であろう。部屋全体がまさに窒息せんばかりの、75万本もの吸い殻でびっしりと覆われている。他にもさまざまなタイプの危険な匂いが現代アートにはびこっている。本来嗅覚の本質的な役割が危険を察知することであると考えれば、これは理にかなっていると言えよう。シルド・メイレレスのインスタレーション「ヴォラティル」(1980年から94年)では、床がタルカムパウダーの厚い層で覆われた部屋にロウソクがともされ、さらに家庭用ガスの匂いで満たされた。そこでメイレレスは雲の上を歩いているかのような浮遊感覚と、炎を前にしてガス漏れでも起こったらどうなるのだろうという疑いが引き起こす不安との対比を巧みに利用している。同じように不安を煽る作品が、リチャード・ウィルソンのインスタレーション「20時50分」だ。8000リットルものガソリンの入れられた巨大なタンクで構成され、建築空間の認識を変えてしまうような暗黒の深淵がそこに表現されている。そして知覚に強く訴えるようなその匂いは、鑑賞者に対し即座に警戒態勢を取ることを強いる。ボリス・ローによる、洗剤で構成された白いモノクローム作品は色彩的には対照的だが同じように有害である。が、有毒ガスを発生させるためこちらは展示することすら不可能となっている。化学物質、汚染物質、薬物、毒物、したがってこの種の芸術は私たちを窒息させる危険を多くはらんでいる。一方で、それぞれの文化に根ざした衛生用品や化粧品といったものは集合的無意識によって共有された暗示的な意味を持つわけだが、ひとたびそれらが芸術に変換されると、不穏で驚くほどの社会学的環境がそこに誕生することになる。「アワー・プロダクト」のために、パメラ・ローゼンクランツは「ホワイト・キューブ」すなわち「白い立方体」と呼ばれる展示空間を24万リットルものピンク色の液体で満たす。そしてその液体からは化粧品とバクテリアによって化合された離乳食の匂いがする。この流体的素材によって、生物学的なものと技術的なもの、そして有機的なものと合成的なものは同時に併存可能であるということが示唆される。クリーム、石けん、泡風呂といったものを彫刻で表現するカーラ・ブラックによるインスタレーション、パステルカラーで彩られた広大な抽象的風景もまた自然と文化という両義性を扱っている。したがって芸術のなかの化粧品は身体に言及しているというよりかは、ボリス・ローの作品に見られるように社会的構造のほうに触れていると言え、あるいはニパン・オランニウェスナ「シティ・オブ・ゴースト」のようにより政治的なニュアンスを持つこともある。その作品はタルクでできた地図の形を取っており、そのなかで21の大都市が錯綜する様はグローバリゼーションの脆弱さを物語るとともに、その匂いによってある種のノスタルジーを引き起こす。モナ・ハトゥム「プレゼント・テンス(現在の緊張)」(1996年)もまた地図の形を取っており、オリーブオイルで作った2400個の石けんのキューブで構成されたその地図は、その上に描かれた国境がにじんでぼやけており、それによってハトゥムはヨルダン川西岸の政治的不安定さを強調している。さらに造形作家エリカ・エラワンの「ルーエ・イン・フリーデン(安らかに眠れ)」を例に挙げるとすれば、この作品ではマウスウォッシュ用の洗面器が展示され、その合成的な匂いによって偽りの清潔感が伝えられるとともに、インドネシアの飲料水汚染が告発されることになる。中毒の危険はすぐそこまで迫っている。
有機物の匂い
展示空間に自然の要素を取り入れることで作品を「生きた」ものにすることができる。1968年の「アース・ルーム」で、ウォルター・デ・マリアは展示会場を数十立方メートルの土で覆い、目で見る前にまずはその匂いを鼻で感じられるようにした。1999年、アルテ・ポーヴェラの代表的芸術家ジュゼッペ・ペノーネは「影の呼吸」を制作した。月桂樹の葉で満たされたケージで四方の壁が埋めつくされ、その匂いで空間内が満たされるとともに、来場者の記憶にもその匂いが浸透する。バラ、ラベンダー、ホップを目一杯地面に敷き詰め同様の記憶的効果を狙っているのは、ヘルマン・デ・フリースだ。また、苔の持つ可変的特性も明白な素材となり得る。メグ・ウェブスターはその特性を利用して苔の幾何学的フォルムを作り出し、そしてオラファー・エリアソンは「モスウォール(苔の壁)」(1994年)と題された一枚の壁を制作した。苔でできたこの壁は乾燥によって縮み退色するが、水をあげると元気を取り戻し、その際強い匂いを放つ。この作品は生態系につきまとう不安定さのメタファーであると言えるだろう。食物もまた芸術の題材として適している。1960年以降、コーヒー(ヤニス・クネリス、ガル・ワインスタイン)、チョコレート(エド・ルシェ、ポール・マッカーシー、ジャニーン・アントニ)、スパイス(斎藤陽子、ベアトリス・グロウ、エルネスト・ネト)といったものがその特徴ある匂いのために、そして長く保存がきくといった理由から使用された。同時に、これらの食材は植民地支配の歴史を連想させるものでもあるだろう。傷みやすい食材が創作に使われることもある。1970年代から2000年代にかけて、ディーター・ロス、ヤン・ファーブル、ナンシー・ルビンス、ロエロフ・ルー、アーニャ・ガラッチオ、ミシェル・ブラジーといった芸術家たちはあらゆる食材を腐敗させるカビを素材として用いたが、それは事物が変質していくプロセスというものに彼らが魅了されたからでもあり、そして時間を止めることの不可能性を表現するためでもあった。生と死を扱うこれらの作品の極みは、まさにダミアン・ハーストの「ア・サウザンド・イヤーズ」にあると言えるだろう。この怪物的な虚栄心、すなわち腐敗した牛の頭部から発せられる病的なまでの悪臭は多くの来場者たちを震撼させた。このように美術館という文脈にはおよそそぐわない思いがけない有機物の匂いの数々は、それが魅力的なものであれ嫌悪を催すものであれ、視覚だけではなし得ない強烈な印象を抱かせることに成功している。
作品化される身体
ペーター・デ・クーペレが2014年、嗅覚芸術への自らのマニフェストに対し自分の体液を使って署名をしたことは、今日の嗅覚芸術において身体の匂いというものがいかなる地位を占めているかということを考えるうえで示唆に富んでいる。『身体における鼻』と題された論文のなかでサンドラ・バレは次のように述べている。「嗅覚芸術において、美的経験ということに関してもはや精神は優位にはなく、作品を作るのは身体全体なのである。[...]身体は自らから出る匂いを発する液体を、すなわち分泌物を受け入れ始める。身体は匂いを感じるだけではなく、匂いを放つ」。こうした分泌液のなかでも最も忌まわしきものこそが芸術家を魅了する。ピエロ・マンゾーニがあの物議をかもした「芸術家の糞」を発表してからというもの、排泄物は(ヴィム・デルボア、マイク・ブーシェ、アンドレス・セラーノらによって)頻繁に用いられてきた。他の匂いのある液体も、社会的な許容範囲を侵犯するために用いられ、またさまざまな悪臭からなる社会構造、そして汚染というものに対し人が見せる本能的な恐怖に対し疑問を投げかけるために用いられた。「作品とは汗である」(『職業の秘密』1926年刊)、そうジャン・コクトーも書いている。そして複数の芸術家たちがそれを言葉通りにとらえ、汗を収集し、そして展示したのである。ペーター・デ・クーペレは「汗」において女性ダンサーたちの汗を、そしてシセル・トラースは「匂いの恐怖、恐怖の匂い」において恐怖症を持つ男性たちの汗を作品にした。さらに恐ろしいことに、血までもが芸術家たちによって利用される。創世のメタファー、あるいはキリストの象徴、さもなくば政治的な叫びとして。メキシコ人芸術家のテレサ・マルゴレスは麻薬カルテルに殺害された犠牲者たちの血を使い、息をするのも耐えがたい作品を作り上げている。ここでは本能的拒絶反応は必ずしも物体から知覚される特性によってのみ引き起こされるわけではなく、その物体が表象しほのめかすものによっても引き起こされているというわけだ。匂いとは、嫌悪が起こるプロセスのなかでさらなる感情を引き起こすために動員される原動力に他ならない。身体の匂いは社会的あるいは政治的要求の身振りという形も取るが、同時に個人のアイデンティティや私的領域といったものにも触れるものでもある。アニカ・イーは芸術界関係者の約100人の女性の頬から採取したバクテリアを培養し「Fと呼んでください」という題の作品を作り上げた。この変化するバクテリアでできた絵はその匂いによって、伝染する瘴気への恐怖をかき立てるだろう。イーによればその恐怖は女性的力に対する恐怖へのアナロジーであるという。そして多くの芸術家たちはその匂いを家父長的社会で抑圧されている女性の身体と欲望を表現するために用いている。フェミニストとしても知られる芸術家ジュディ・シカゴは1972年、インスタレーション「生理のバスルーム」を案出する。浴室のゴミ箱からは未使用のものから使用済みのものまで生理用タンポンとナプキンがあふれている。そのむせかえるような匂いよって、鑑賞者は経血というひとつのタブーを荒々しいまでに突きつけられることになる。着用済みの女性もの下着によって構成された平川典俊「涅槃の庭」(1997年)もまた同様の没入感を生み出している。身体という物理的境界の外に広がる私的かつ不可視の痕跡として、匂いもまた立派なアイデンティティのひとつとであると見なすことができるだろう。クララ・ウルシッティが発表したセルフポートレイトの連作「香りの自画像」のなかのひとつ「澄んだ水」(1993年)にはまさに作家自身の膣分泌液が用いられ、香水という形式を取ったこのは作品は体臭を覆い隠すという本来香水が担うはずだった目的から逸脱し、皮肉にもその体臭に価値を与えるものとして立ち現れることになる。マルティンカ・ワルジニアク(「スメル・ミー」2012年)、そしてクラウディア・フォーゲル(「コンクリート2.3グラム、香りの自画像」2013年)らもまた自身の身体を香りによって表現し、イヴ・クラインの「人体測定」も含め、これらの作品は身体芸術において主要な地位を占めたものであると言うことができるだろう。
欲望を喚起する力を備えたものとしての体臭、ということもまた広大な探究の場であると言えるだろう。ヤナ・スターバックは「発汗、あるいは匂いの肖像」(1995年)において自身のパートナーの匂いを複製することを試みた。それによってスターバックは、他者に内在する本質を所有ないし保持できるなどという考えが幻想であるということを自らの具体例をもって示してみせたのである。一方で、人体におけるフェロモンの役割はまだ実証こそされていないものの、「フェロモン・パーティ」を主催するジュディス・プレイズや、結婚相談所のプロトタイプとして、衣服にしみこんだ匂いでカップリングを試みる「フェロモン・リンク」を1996年に構想したクララ・ウルシッティらを始めとして、フェロモンは多くの芸術家たちにインスピレーションを与えることとなった。このように匂いに仲人の役割を担わせるという考えはジェイムス・オージェとジミー・ロワゾーに「スメル+」の着想を与えた。通気チューブを通して視界の外にいる相手の脇の下やさらには性器の匂いまでかがせる嗅覚の「ブラインドデート」システムだ。果たして結果はどうなるやら……。