西欧的想像力において香りは女性的イメージにあまりに強力に紐づけられているため、それを解きほぐすことは困難だ。そのため男性が香りを用いることは長らく論争の種となっていた。あたかも香りの使用が男らしさへの冒涜であるかのように。とはいえ中世においては騎士が理想的男性像を体現していた一方で、アンシャン・レジーム期(訳注:フランス革命以前のブルボン朝、特に16-18世紀の絶対王政期のフランスの社会・政治体制をさしている)には宮廷人というまた別の、そして十九世紀にはブルジョアというまた違った理想像があったわけで、このように男らしさという概念は力強さと洗練さのあいだで微妙なバランスを保ちながら、時代とともに変遷していった。そしてそのなかには男性が香りを用いることに対し寛容な時代もあったのだ。寛容度を表すグラフ曲線が上向けば上向くほど、理想的男性像からほとばしるテストステロンの値は逆向きの勾配をたどるといった案配だ。
あまり理解されていないことを簡潔に補足しておこう。「香水(パルファム)」という両義的な語彙のもとに、異なる社会的機能、そして異なる象徴的役割を備えた2つの商品的カテゴリーが実際には共存する形で存在している。まず第一のものとして、周囲に印象を与える目的から、それをつける者に対し追加的に匂いを付与する役割を担う側面がある。多くの場合、その香りの目的は誰かを誘惑することであり、少なくとも他者に気付かれ、そして気に入られるためにこそ香りは使われる。香水は人の身体の上にはっきりと分かる形でしるしをつけるのだ。そして第二に、その社会的な役割として、体の匂いを緩和し、覆い隠し、消し去るための製品としての香りがある。衛生用品としてのこれらは使用した瞬間に香り、しかしその香りはすぐに消えるので、社会という領域において痕跡を残さずにすむ。もはや私的領域に限った話ではないということだ。十九世紀にはオーデコロンやラベンダー化粧水が、身繕い用の水に香りをつけ浄化するためのものとしていたるところに見られた。これらが特徴的だったのは、その香りが皮膚や衣服に混ざり合うことで、清潔さを与えたことだ。毎朝の髭剃りで香りを与えながら同時にその香りを洗い流してもくれるこれらの製品は、このようにして男たちのなかで重要な地位を獲得していった。
手袋職人、薬屋、理髪師
香りを取り扱う商人たちがどのような仕事をしていたかを見ていけば、この「香水(パルファム)」という語の持つ両義性の説明もつくだろう。アンシャン・レジーム期には組合が職人と商業を統制していた。手袋職人は調香師も兼ねていたと言ってよいが、彼らが調合する香りは手袋の皮をなめす際に生じるきつい匂いをごまかすためのものだった。小売商人たちは香りを作ることができなかったが、それらを販売し、香水瓶をきれいに陳列し美しく見せることが許された。このような伝統から、香りと被服の世界が象徴的に近似しているということが見て取れるだろう。一方で、薬屋と理髪師も療法と衛生に役立てるため香りつきの製品を複数調合し、香りに結びつけられた西欧的想像力の形成に寄与した。とりわけ英国においては正教会がその使用に対し強い影響力をおよぼしていたため、1770年の議会の決定により、慈悲深き女王陛下の臣民たる男性を香りの使用やその他の策謀によって誘惑し婚姻関係に誘いこんだと認めたすべての女性は、魔術を使ったかどで法により罰が課される恐れがあった。この点、薬屋と理髪師の取り扱う香りは衛生目的であったため道徳を侵害しなかった。つまり十九世紀の商店のなかはこんな感じで、手袋職人兼調香師の香りつきの水、小売商人のこまごまとした装飾品、理髪師と薬屋の衛生用品がいっしょくたになってひしめき合っていたわけで、このような多重的な関連性が香りを文化的な視点からとらえることを困難にさせる。仮に各カテゴリー間に連続性が認められたとしても、香りを使うこと、使用される文脈、規範、それらすべてに宿る複数性が織りなす現実によって、異なるさまざまな産物が生み出されるからだ。とりわけ性別が問題となる場合には。
罪深き女の香り
キリスト教では神に香りを捧げることは認められているし、自身が使用することも衛生目的でなら許容されている。しかしそれ以外での使用はすべて魔術と見なされる。誘惑目的なら特にだ。新約聖書にはキリストの人生において香(アロマ)が使われる場面が3ヶ所登場する。すなわちキリストの生誕から12日後、東方の三博士が彼のために香を焚く。そしてキリストの人生の最期においては、彼とともにガリラヤから来た女たち(『ルカの福音書』23章56節)、アリマタヤのヨセフ、そしてニコデモ(『ヨハネの福音書』19章40節)が香の準備をし(ヨハネによればミルラとアロエの)、キリストの亡き骸をかぐわしい香りで満たし、墓に埋葬する。しかし香りの世俗的使用を断罪し続け、神の崇拝にのみその使用の正当性が認められる(『ルカの福音書』7章 36-49節)という教えを定着させたのは、あの他ならぬ、キリストの足に香油を塗り捧げた罪深きマグダラのマリアだった。香りとは祈りを伝える手段でありすなわち神との「垂直的」交渉を行うための手段となり得るものなのだから、それを人間同士の「平行的」交渉に役立てようとするならば、香りは堕落してしまっている。まったく不運としか言いようのないのは、エステル、ジュディス、サロメと、聖書のなかで香りと強く結びつけられたこれら3人の人物たちがなぜかそろいもそろって、彼女たちを取り巻く男たちにとっての悪女だったということである。だからこそ男たちはこの誘惑する、という属性を女性に対し押しつけ続けあらゆる嫌疑をかけ続けたのであろう。
女性による香りの世俗的使用は、それが隠匿の意志を示すものであるだけに余計に罪深い。ここで隠匿されるのは、原罪の匂い、すなわちイヴの匂いである。女性の持つ生来の匂いは、モーツァルト作のオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を引くとすれば、罪の匂いに他ならない(「女の匂いがするぞ!」)。それは女が悪魔であることを示す匂いである。エミール・ゾラの『ムーレ神父のあやまち』では修道士アルカンジアがその匂いのなかに誘惑者の存在を見出し、以下のごとき、まったく遠慮のない言いかたでムーレ神父に警告する。「やつらは身体のなかに悪魔を飼っているのです。やつらからは悪魔の匂いがする。脚、腕、腹、いたるところから匂ってくる……。それが馬鹿者どもを虜にしちまうんです」。くわえて十九世紀の医師たちがこの明白な主題に関し躊躇することなく学説を立てた。「元来香りの起源は宗教にあった。長きにわたって香りはもっぱら神と死者を崇めるために用いられてきたが、その後女たちがこれを独占した。男に影響を与えるという目的から。そして聖書に頻繁に言及されている以上言うまでもないことかもしれないが、悪臭を浄化、ないし覆い隠すという目的から」、そうエルネスト・モナンは『人体の匂い、原因と治療』(1903年刊)のなかで述べている。
ムスク、シベット、ペルー・バルサム
ということは男性が香りを用いることは「男らしさ」を損なうものととらえられるのではないかと、そう思われる向きもあるかもしれない。しかしながら時代によっては、例えばアンシャン・レジーム期においては男にとって香りをつけることは、たとえ強いそれであったとしてもそうあり得ない話でもなく、男らしさを損ねるものでもなかった。歴史家カトリーヌ・ラノエによる十八世紀における香りの研究に詳しいように、貴族がかぶるカツラにはしばしば香りつきのパウダーが用いられた。べトゥーヌ侯爵はマレシャル粉(アイリス、オレンジブロッサム、ローズ、コリアンダー、クロブ)を用いた。ラ・トレモワール伯爵はキプロス粉を、コワニー伯爵はナデシコの粉を用いた。小説、とりわけ恋愛小説にはより私生活に根ざした例が確認できる。アラン=ルネ・ルサージュは『ジル・ブラース物語』(1715年~1735年刊)のなかで次のように書いている。「私は体じゅうにポマードをこすりつけた。私は白いシャツにたっぷりと香りをつけたうえで着こみ、私の恋人を魅了することに寄与し得るあらゆることについて何ひとつ抜かりがないことを確認すると、逢引きに出かけた」。男性が香りを用いる理由は多岐にわたった。ひとつは衛生だ。ジョルジュ・ヴィガレロが『清潔と汚れ』(スイユ社、1987年刊)のなかで述べているように、十七世紀から十八世紀初頭にかけての身繕いの特徴は乾燥にあった。男性も女性も香りを染みこませた白い布で自分の体をこすっていたのである。このような使われかたは香りを再び衛生用品に結びつける。したがってその使用は罪ではない。使われる量もたっぷりだったということは、それだけ覆い隠すべき体臭が強かったということを意味しているが、アラン・コルバンが『瘴気と黄水仙』(オービエ=モンターニュ社、1982年刊)のなかで記しているように、十八世紀半ばごろから嗅覚的許容度が厳しくなったということとも関連している。同じころ、香りが予防として、つまり療法として(したがって正当に)使用されたことも軽視できない。それについてはアニク・ルゲレ『香りが治療をもたらす時。修道院の庭、王子の庭』(ガルド=タン社、2009年刊)に詳しい。ローズマリーをアルコールとともに蒸留した、オーデコロンの祖としても知られるあのハンガリー王妃の有名な水は十七世紀から十八世紀にかけていたるところに見られた。悪い空気から、すなわち病気から身を守るためにも男は香りを、ときに強いそれをまとった。それがどのくらい強かったかについては、『フランスの調香師』シモン・バルブが1693年に提供した「自身につけるための配合」に次のような証言がある。「すり鉢のなかでムスク4粒、シベット2粒をすりつぶす。そこにペルー・バルサムを4滴加える。そしてそれらを少量の綿で集めた後、瓶またはお椀のなかに入れる」。
男性のためだけの
一方で革命後に西欧の男性に課されたあるべき理想像は、しかしながら香りについては弱い影響しかおよばさなかった。アラン・コルバンが『男らしさの歴史』(スイユ社、2011年刊)のなかで強調したように、十九世紀には男性的美徳に変質が起こったからだ。男女の差は服装のちがいによって際立つようになったのである。必ずしも社会的階級の区別を示すものではなかったにせよ、黒い服は男性的力強さを示すための衣装となった。これと対比されるのが、女性の化粧と服の色の派手派手しさである。より一般について言えば、価値あるもののためなら死すらいとわぬという自己犠牲が要求されるようになったことで、社会の男性性が強まった。1872年に兵役が義務化されると男性しか入れない閉鎖的な場が多く増え(喫煙室からクラブ、売春宿まで)、名誉の決闘も一般化した。民衆のレベルでこのようなことが起こるのは比較的新しいことである。十九世紀の医者たちは相も変わらず女性の体臭についてあれこれ言っていたが、一方で健康な男性のそれについては自然で力強いものとして対比させながら強調した。「力強い男となよなよして女々しい男は匂いで区別するべし。精液が放出されることにより発汗作用が起こり、体全体から強い、いささか悪臭でさえあるアンモニア臭が発せられるからである。これに対し弱い男は子供やおなごのように酸っぱく、どこか味気ない匂いがする」と、ジュリアン=ジョセフ・ヴィレー著『人類の自然史』(1800年~1801年刊)にはある。これはもう以前からずっとそうであるが、男性に固有の香りの製品がいかに消費されてきたかを正確に把握するための情報源が不足している。さまざまな手引き書を見ても十九世紀の男性の香りをめぐる規範がいかなるものであったかを示す情報はほとんどない。せいぜいのところ、ご婦人たちの不興を買う恐れのあった煙草の消費を慎むことが厳しく求められているくらいだ。「男たるもの自分の体からすべての匂いを締め出すべきである」、そうスタッフ男爵は十九世紀終わりごろ『世界の使用法』のなかでよりラディカルに宣誓した。当時、香りのラインナップに男性用女性用の区別はなかった。オードトワレ、各種エッセンス、化粧石けん、オイル、ヘアオイル、ポマードなどなど。同じ製品が男女の区別なく万人に使われていたと思われる。男性だけに使われた化粧品を挙げるとすれば髭用ワックスくらいであろうが、それには通常香りはなかった(例外的にバイオレットの香りをつけられることはあったが)。注文や納品など含め、商品がどのように取り引きされていたかの詳細は不明である。ファステンブルグ王子カール・エゴンがピエール=フランソワ=パスカル・ゲランに向けて小さな瓶入りのバイオレット・フレグランスつきポマードを注文していたことがゲラン社のアーカイブから分かったとしても、それが本人が使用するために注文されたのかを示すものは何もないのである。それが贈答用だった可能性も同じくあったわけで。