裏切られた幻想
コスの服で固めたラファエロの聖母がいたとしよう。汚れひとつない純白のトップスと流れるような黒のパンツ姿。彼女はフレデリック・マルのブティックの前に立ち、若い無造作ヘアのパパに坊やを預ける。彼女は入店し、ためらう。そうだ、彼女は前日ランチの時間を利用してここで香水を買ったのだ。しかし今になって彼女はそれを交換したいと思っている。オフィスに入ったとたん同僚たちがいっせいに叫び出し、「それは君じゃない! まったく君らしくない!」と口々にそう言ったからだ。どうだろう。彼女がそのとき何を衝動買いしたか、バッグのなかから箱を出すところを見るまでもなくその名を言い当てられそうなものではないか。むろん、「ポートレイト・オブ・ア・レディ」である。大地の爆発によって生まれたパチュリの上に荒々しく花開く、壮大なバラの香り。かつて聖ベルナール・ド・クレルヴォーが聖母マリアを指して表現した「ローサ・シネ・スピナ」、すなわち「棘のないバラ」とは対極をなすイメージだ。 皆の猛反対を前にして、この小さき聖母はすっかり怖気づいてしまう。彼女はこの鋭いバラを「コロン・ビガラード」と交換する。このオレンジの香りからはいかなる刺々しさも感じられない。だがここで少し考えてみていただきたいのだが、もしかしたらこのユリのような頬の若きお母さんは、イメージを変えてみたい、とそうひそかに願っていたのではなかったか。彼女の「ポートレイト・オブ・ア・レディ」が周囲を阿鼻叫喚に陥れたのは、そうした無言の、しかし強力なメッセージが出し抜けに表明されたことで彼らの不意を突き、彼女がまったく別の女性、すなわち彼女がそうでないところの(あるいはまだそうなっていないところの)、そして誰もがそうであってほしくないと思っている女性になりたいと望んでいることに対し、おかしいというという思いを抱かせたからなのだ。すなわち女帝、そして悪女。自分に合ってない香水をお求めになる際はご注意を。その香水によって幻想が裏切られることになる。
エスカレートする「ラヴィ・エ・ベル」
それにしてもいったい誰が、この満員の地下鉄車内でプラリネの香りをぷんぷんさせているのだろう。探そうとしなくてもいい。どのような社会的スタイルであるか経済的地位であるかに関係なく、ここにいるご婦人がたのほぼ全員がまるで制服のようにその香りをまとっているのである。だがいったいなぜなのだろうか? ダイエット中だからと自らに禁じている甘いお菓子を鼻から吸いこむためか。それとも運転免許を取ったころや、まだ高齢者優遇割引カードを取得する以前の時代に若返ろうとしているのか。あるいはこの情け容赦ない世界で、無邪気な何かに包まれたいがためなのか。もちろん、これらすべてがそうなのだ。だがこのシロップのような甘ったるいフェミニンな香水がもう10年以上ものあいだべとべとと塗りたくられているのには、また別の理由があるのである。ヴィルジニー・デパントの作品を再読すればその答えに勘づくかもしれない。「どのような社会だってこれほどまでに、美しくあることを強制しその強制への服従の証拠を差し出すよう求めたことはなかったし、体を女性化するためにかくなる身体的改変を要求したこともなかった」と、そう彼女は『キングコング・セオリー』(グラッセ社、2006年刊)に記している。「しかし同時に、これほどまでに女性の身体的、精神的移動の自由を許した社会もかつてなかったのではないか。女性らしさが過度に強調されることは男性的特権が失われたことへの穴埋めであるようにも見えるし、彼らを安心させることで自分も安心するためのひとつの方法であるようにも思える」。そのような女性らしさの過剰を嗅覚に当てはめたときに相当するのが、この「ラヴィ・エ・ベル」を始めとしたロリータ的香水なのではないだろうか。むろんそれより前の1980年代に登場し成功をおさめた「オピウム」「ジョルジオ」「ポワゾン」からしてすでにこうした過剰さは認められたものの、その女性らしさは前述のものとは少し異なり、男漁りのモードに入ってしまったかのような荒々しいそれであった。それに対し、甘いお菓子のような香りはこう泣きわめくのだ。「私は良い女なのよ!」と(もちろん「善良な」という意味ではない)。そうすることで、枠組みの外部へとはみ出してしまっていることへのエクスキューズを表明しようとでもしているかのようだ。
#タグづけする天使
あるいは人を怖がらせることが怖くなってしまったとき、彼女たちはこのキャラメル製の鎧のなかに身を隠す。とはいえ決してそれは、そのなかに消えていなくなってしまうことではなく、むしろその反対で、鎧自体がひとつの嗅覚的爆弾なのだ。つまり、嫌でも匂う。それをかがずにいることは不可能だ。そしてそれは同時に、他者の匂いをかがずにすむ方法でもある。通勤ラッシュ時の混雑、あるいはコワーキングスペースにありがちなあのごちゃごちゃした感じ、じゅうたん爆撃のように絶え間なく降り注ぐメールと「いいね」の雨あられ、そんなときに香りの強い香水をつければ、少しはストレスもましになる。自分の匂いだけをかぐというのはどこか、携帯の画面の上に視線を落として意図的に視界を狭めたり、耳にイヤフォンをつけて自分の世界に閉じこもろうとすることに似ている気がする。あるいはこのような香りのオーバードーズは何がしかを、いや何でもいいのだが、例えばインスタグラムのいいね欄に自分が写っていないことにショックを受けたときなどに、そのショックに打ち勝つことのできるような何かを感じさせてくれるような、そんな役割を果たしているものなのかもしれない。
自分の香りを押し通すということはすなわち、他者への配慮なしに自分という存在を指し示すための、考えられ得る限り最も原始的な方法であると言えよう。ここでパリにあるホテル・コストのレストランにいるひとりの女性を想像してみよう。屋根のあるテラス席、テーブル同士の間隔は詰まっている。そして何よりも、途方もない混雑と喧騒。彼女は男性とふたりで夕食を取っている。傍目から見ても、彼女が男とは長い付き合いになる愛人なのだということが見て取れる。彼女は男との関係を清算するべく言葉を切り出す。その話は長々と続き、それを聞いているあいだ男は顔をうつむかせ、ただ沈鬱の内に沈むにまかせている。すると出し抜けに、彼女は押し黙る。カトラリーを置き、バッグをごそごそと探り香水のボトルを取り出すと、おもむろに自分に向けて噴霧する……。何てことだろう、それは「エンジェル」だ。さながら攻撃を受けたと察知したイカが大量のスミを吐き出すかのように、涙の代わりに催涙スプレーをお見舞いするというわけだ。長い付き合いになる愛人が「エンジェル」をつけていると知ったとき、私たちにはいったい何ができるというのだろう? 彼は同じものを妻にもプレゼントしたのだろうか? そもそもその香水を選んだのは誰なのか、その既婚者の男性か、それとも愛人のほうなのか? そしてもし彼の妻がつけていなかったとしたら、このライバルからのメッセージはいかにして受け止められるというのか? 彼女は自身の署名を男の肌の上にタグづけしたのだ。男には抗うすべはなかった。
「シャリマー」を手放せない女の子
領土、あるいは場所を指し示すものとしての香り。そして香りは人が住む空間でもある。彼女の母はフランス人。そして父はインド人だ。そしてそのインドから、彼女は自身の物語のすべてを作り上げたのだった。そのなかで、彼女は他者だった。ザディグ&ヴォルテールのカシミヤセーターに身を包んだ、エキゾチックな、遠い国の姫君。彼女の母は以前彼女に、「レール・デュ・タン」をプレゼントしていた。そしてそこにはいつかこの子が自分の娘を持ったとき、同じ香水を贈ってくれればという願いもこもっていた。しかし彼女が自分で香水を買える年齢になったとき、彼女が選んだのは「シャリマー」だったのだ。すなわち、パリという視点から解釈されたインドの歴史。「シャリマー」は、彼女という存在そのものだった。すなわち、フランスとインドの結合が生み落とした果実。祖国としての香り、そして母体としての香り、そのような香りに彼女は包まれている。この(ゲランと同じ)フランス人の母、そして妻となった彼女に自身の名を与えた男(シャリマーと同じ、インド人)。その父にとって望ましい存在であるこの母なる女性を模倣しつつも、彼女はひとりその香りのなかで悦に入るのだった。
彼女が大手ラグジュアリーブランドに就職するためにアピールしたのはまさにこのインド人としてのアイデンティティだった。そしてそのブランドは彼女にぴったりのポストを用意した。だがここで問題が。規則というのは厳しいもので、その会社では自社製品しか身につけてはいけないというのである。彼女からしてみれば、もうパニックだ。彼女は何とか融通がきかせられないか真剣になって考えた。自社ブランドのなかでインドに着想を得た香水もひとつあったが、また何とも鼻持ちならない香りであった。なので結局はシルクロードを連想させる香水で手を打つことにしたのだった。この香水は名前は非常にニュアンスに富んでいているように思われたが、それとは裏腹にそのノートにはどこにも「シャリマー」を連想させるところはなかった。
自分に合ってない香水をお求めになる際はご注意を。その香水によって幻想が裏切られることになる。
背負うには重すぎる遺産
彼は激しく消耗したように憂いに沈む。ブロンドの髪に青白い顔。神経質そうにぴくぴくと震えている。ロシアの王子、芸術家、自殺者を輩出した家系の血筋を引く。彼が将来妻となる女性と出会ったとき、彼女は彼に香水を贈る。しかし彼は即座に拒否反応を示す。その名前? もちろん「エリタージュ(遺産)」である。すなわち正当なる後継者のための香水。1992年にジャン=ポール・ゲランによって創造され、この香水のなかで「ゲルリナード」と呼ばれる、ゲラン家相伝の秘密の調合を指す言葉が始めて使われたということがブランドのサイトに書かれている。われらがロシアの王子は単にこの「エリタージュ」のオリエンタルなベース(バニラ、トンカ)を拒絶したばかりではなく、その語自体が持つ重みをよく理解していたのだ。一方その彼のフィアンセはこれから自分が結婚しようとしているものを賢しくもマーカーで色づけしていた。すなわち、称号と歴史。離婚後、彼は祖母の死以来閉鎖されていたアパルトマンに再び訪れ、そこに居を移すだろう。そしてその屋敷のなかに家族の匂いを認め、彼は卒倒しそうになるのだろう。 世代から世代へと無言のうちに受け継がれ、まるで地下室にこもったかのような家族の匂いが亡霊として立ち現れる。さながら物言わぬ幽霊が壁をすり抜けるかのごとく匂いは浸透し、霊的媒介となる。これにはプルースト的なマドレーヌ効果とはひと味ちがったものがある。嗅覚的フラッシュバックによって象徴として現出するのは、単に幼少期の甘い楽園ばかりではない。消え去り失われたものを思い出させるものとしての香り、すなわちすでに不在となったものをあたかも存在するかのように思わせるような、そのようなものとしての香りは、言うなれば亡霊の範疇に属するものである。
消え去り失われたものを思い出させるものとしての香り、すなわちすでに不在となったものをあたかも存在するかのように思わせるような、そのようなものとしての香りは、言うなれば亡霊の範疇に属するものである。
いくつものマドレーヌ
香りのことをアイデンティティを映し出す鏡、あるいは誘惑のための武器としてばかり見ていると、それが死と結びついたものであるということをつい忘れがちになってしまう(少なくとも、香水が作られることで花は死んでいる)。「エンバーム」という動詞はふたつの意味を持っている。ひとつは、かぐわしい香りで満たすこと。そしてもうひとつは、死体に防腐処理を施すこと。香りにまつわる話のなかではいつも引き合いに出されるプチット・マドレーヌ。しかしその小さなマドレーヌの後ろには、大文字のマドレーヌが隠れているのである。すなわちその人名の由来となった、マグダラのマリアである。このイエスの弟子は、香油を携えイエスの墓に現れ、彼の体を「エンバーム」しようとする。そしてそこでイエスの復活を目にするのだ。この蘇りの第一発見者としてマグダラのマリアはそのことを使徒たちに伝えに走るが、福音書のなかでは彼女は言葉を持たない者として描かれる。悔い改めた娼婦。身にまとっているものと言えば長くのびた髪くらいなものだが、裸婦を描くという伝統を復活させたルネサンス以降の画家たちによってその後偏愛的に描かれることになる。要するに、たとえこの大文字のマドレーヌが涙を流したとしても、人は好奇のまなざしで彼女を見るばかりで、その声を聞き届けることは決してない。 そして第三のマドレーヌもまた、ほぼ沈黙している。記憶に関係するという点では第一のマドレーヌと、そして復活と関係するという点においては第二のマドレーヌと共通点がある。その第三のマドレーヌとは、アルフレッド・ヒッチコック監督『めまい』でキム・ノヴァクが演じる登場人物「マデリン」である。この『めまい(Vertigo)』のフランス語タイトルは『冷や汗(Sueurs froides)』であり、同作はボワロー=ナルスジャックのノワール小説『死者たちのなかから』を脚色したものとなっている。実はこのマデリンという名は偽名であり、彼女の本当の名はジュディである。(ジェイムス・スチュワート演じる)探偵スコッティをだますために彼女はこの役を演じているのだった。かつて自殺し非業の死を遂げたという美女の霊に取り憑かれた、この謎めいたブロンド女、マデリンという役を。彼女は美術館に飾られた、過去に自殺したというその女の肖像をいつまでも見つめている。彼女が自身の死の偽装を行う現場を目撃した後、愛する人の死に打ちひしがれ悲嘆に暮れるスコッティは、ただ道で行き合っただけの赤毛のジュディに対し、その失われた恋人の面影を強引に重ねようとする。その死者に似せるためにスコッティがジュディに変装をさせる、まさにフェティッシュとしか言いようのないあの有名な場面では、スコッティは口紅の色まで選んでいるというのに、奇妙なことに香水には見向きもしない。そもそもこの主人公には探偵としても人としても、徹底的に嗅覚というものが欠けているのだ。たとえ目を閉じた状態だったとしても、愛する人の香りが分からないなどということがどうしてあり得るのだろう。「オドール・ディ・フェミナ(女の匂い)」というものは、かくも男の視線からすり抜け逃れ去るものなのか。
ヒッチコックによって演出されたこの純粋に視覚的な欲動とは異なる、また別のフェティッシュなイメージの創造者を思い浮かべてみよう。写真家のギィ・ブルダンである。ブルダンは1980年の『ヴォーグ』誌掲載の写真のなかで、まさに『めまい』に欠けていたものを提示したのであった。ひとりの女が写った写真。しかしその女の赤い爪の手だけが見えている。女はスチールグレーのスカートの下で脚を大きく広げている。そしてその性器がある位置で、彼女は手に香水瓶を握っている。ジバンシィ「ランテルディ(禁じられたもの)」だ。まったくこれ見よがしなほどのフロイト的謎かけではないか。男根に見立てられた香水瓶が女性器を隠す形で配置されているとは、まさにエディプス・コンプレックスの入門編とでも言うべきか。ブルダンがここで試みたアイデアはその後の2007年に、同じく写真家のテリー・リチャードソンによって再現されることになる。トム・フォードの男性向け香水の初回発売のためにリチャードソンが撮影した写真のなかで、しかしブルダンのものと異なっていたのは、今度は完全なる裸体の女性が被写体として採用されている点だった。きれいに脱毛され、裸体を強調するかのごとくにオイルで光らせた肌の上に、その香水瓶が置かれた。だがもちろん香水瓶とその中身がイコールであるわけではない。
名づけえぬもの
香りが視線から逃れ去るものであるということは先にも述べた通りであるが、いくつものイメージを香りへと昇華させるという試みを行ってきたセルジュ・ルタンスは、こうした嗅覚から他の感覚への移行に対し極めて自覚的な、例外的な人物のひとりであると言えよう。「私がなぜイメージから作ったか? 写真に興味があったからでも、ましてや香水に興味があったからでもない。私は原初の女性を、かつてそこにいなかったはずの女性を香水を使って再構築しようとしたんだ。なのである意味では私は、イメージを使ってその女性をでっちあげたとも言える」、そうルタンスは2006年に行われたインタビューのなかで発言している。「私にとって香水は、言葉とイメージのあいだにかけられた橋のようなものだった。不在である女性の匂いだった」。多分野において見事な才覚を発揮したルタンスであったが、その嗅覚的作品においては、例えば母からのネグレクトであったり、父への憎しみといった幼少期の記憶、そして「イブニングドレスを着た女たち、ミレディー・ド・ウィンター、王女たちを絵に描いた」当時の記憶、などといったものからイメージの着想を得るという、言わば臨床心理学で試みられるようなアナムネーシスが彼の方法論の本質をなしているため、ルタンスは香りを通じた精神分析家であると言えるだろう。 先のインタビューにおいて、「自らが生み出した」その女性について次のように述べている。
「この女性は死ななければならないのだ。この女性とはちがった、私がまだ知らない、私が恐れている『その』女性に私がたどり着くためには」。唐突に女性の死が言及されるその前段には、彼の香水「ブロー・デ・フルール(花を処刑するもの)」について触れながら、その香水を作るために摘み取られるバラになぞらえて、娘たる「その女性」のために斬首刑を宣告される母について語ったパートが来る。最近出てきた新シリーズ「グラット・シエル(摩天楼)」は、未発表の作品に「ムスク・クビライ・カーン」「テュベルーズ・クリミネル」といったこれまでシグネチャーとして名をはせてきた香水を組み入れたものだが、オリジナルでは丸みを帯びたボトルに入れられていたこれらのシグネチャーが、今度は切り立ち角ばったフォルムのそれに入れられるようになったのだった。まさにコンセプト通りの黒く不透明なガラスのモノリスには、まるで沈黙しなければならぬという罰を課されてでもいるかのように、同シリーズの最初の新作の名が異様に小さい文字で、いやもはや目を細めなければ読めぬほど細かな字体で書きこまれている。その語は一般的には、言葉に言い表せないほど、あるいは名状しがたいほど忌まわしい、下劣極まりない物や人のことを指す。すなわち「リンノマーブル」。
いつ何どきも辞書を片手に仕事をしているようなルタンスが、まさか考えなしにこの言葉を選んだはずはあるまい。「リンノマーブル(l'innommable)」、語義的には「名前がつけられないもの」を表すが、それはメーキャップであり写真家であるルタンスが「自らの」女性に施した白い化粧の層の下に覆われ隠されているものを指している。あるいはそれは、ギィ・ブルダンの写真のなかのあのスチールグレーのスカートの後ろに隠れているものであり、またトム・フォードとテリー・リチャードソンのモデルのあのオイルでぎらついた体の後ろに隠されているものでもあるだろう。すなわち女性性、あるいは「このアウラ。存在の周囲からにじみ出るこの光の波動。それによって[男性は]名づけえぬものに対し名前を与えことが可能になり、『性別という不可能な現実』から目を背けることが許される。そして欠落の場所から生まれたこの現実によって、男性を魅了する真の対象が生み出される。しかしその対象は魅了すると同時に、男性の欲望が喪失される場所でもあるのである」。そう精神分析家ピエラ・オラニエ=スペラーニは記している(論文集『欲望と倒錯』所収、スイユ社、1967年刊)。
ルタンスは自分が何を作っているのかを心得ていた。パウダリーなベンゾインの香り。そこにクミンの特徴である汗と性の匂いが入り混じったような、清と濁とが合わさったようなニュアンスが加わる。それこそが「リンノマーブル」のボトルのなかに含まれたものであるわけだが、一方でこの「含む(contient)」という動詞には例えばダムについて言われるときのような「抑える、堰き止める」といった意味もある。まさにそのボトルのなかで「抑えられ堰き止められている」ものこそが、視覚から逃れ去るものを、そして私たちを圧倒し、私たちの手に余るものを指し示しているのである。香り、それは魔女の秘薬。単なるフェミニンな装いにはとどまらないもの。そればかりでなく、女性性をめぐって演じられる仮面舞踏会をも超えていくもの。何かを包むものであると同時に、その包みを透過し、内部に向かって浸透していくもの。そしてときに言葉にできないもの(あるいは軽蔑語としての「リンノマーブル」)に触れほのめかしながら、この香りという経験は私たちの足もとをすくい、目まいを起こさせるのである。それをひと言で言い表すとするならば、喜び、ということになるのだろう。
翻訳:藤原寛明