フェロモンはどのように感知されるのか?
蟻や蜂といった昆虫は一般的に触覚に位置する受容器官によってフェロモンを感知する。この受容器官が進化したものが人間の嗅覚系統ということになる。哺乳類や爬虫類においては鋤鼻器官(じょびきかん=ヴォメロナーサル器官)が介入する。この鋤鼻器官は鼻の奥深く、鼻腔の入り口に近い鼻の付け根に位置する。動物においては、この器官に搭載された受容体は人間の鼻にある嗅覚受容体によく似ている。人間においては、ヤコブソン器官という別名もあるこの鋤鼻器官は萎縮してしまっている。
しかし研究者たちが明らかにしたところでは、哺乳類において最もよく知られたフェロモンであるアンドロステロンと乳腺フェロモン(まだ目の見えない未熟なウサギが母親の乳房を探り当てられるようにするための)が刺激するのは鋤鼻器官ではなく、鼻粘膜の嗅覚ニューロンであった。したがってただ鋤鼻器官だけがフェロモン感知のために開かれた唯一の経路というわけではなく、つまり人間はその器官が萎縮しているからフェロモンに対し鈍感なのではないかという仮説的考察は、ここでは有効ではないということだ。
300種類確認されている動物フェロモンのうち性的行動に影響を与えるために用いられるものはわずか10%から20%にすぎない。
人間はそれを感知できるのか?
乳腺フェロモン(あるいは2-メチル-2-ブテナール)が生まれたばかりのウサギを母親の乳房へと導き、乳を吸いたいという欲望を生み出すわけだが、一方でフランスの生物学者ブノワ・シャールらの研究チームは母親の乳腺からの分泌液が人間の乳児にも同様の挙動を引き起こすことを明らかにした。今現在のところ、人間の脳と嗅覚知覚神経細胞とのあいだに直接的な神経接続があることを立証できた研究者はいない。動物がフェロモンを感知するための特殊な「嗅覚脳」は、どうやら人間には存在しないようだ。しかし人間の胎児は発生から26週までは完全な鋤鼻器官を持っていることが明らかになった。その器官は第二次感覚系のひとつ、いわゆる副嗅球に直接接続された神経細胞によって構成されているわけだが、この鋤鼻器官が妊娠の残りの期間のあいだにほぼ完全に萎縮してしまうというのだ。
ヒトフェロモンとして現在知られているものはどのようなものか?
さまざまなアンドロゲン化合物、すなわちテストステロン由来の分子変異体、例えばアンドロスタジエノン、アンドロステロン、アンドロステロールなどが「フェロモン」の可能性があると目されてきた。この主題をめぐる初期の研究のひとつがメディアで大々的に取り上げられたためヒトフェロモン幻想がさらに加熱することになったが、その研究の内容はというと、医療施設の待合室にアンドロスタジエノンを振りかけた椅子とそうでない椅子を配置するというものだった。研究者たちは椅子の配置場所や座り心地に関係なく、大多数の女性がアンドロスタジエノンつきの椅子に腰かけたことを認めた。またバークレーの研究チームは、アンドロステロンによって女性の心拍数が速くなり、血圧が上昇し、そしてルチゾール値の上昇によって測定されるさまざまな身体的反応が引き起こされることを突き止めた。その点から同研究チームはアンドロステロンが人体の特定の機能に対し明確な影響力を持つと推論した。そしてそれは行動に関わる機能というよりかは生理的あるいは感情をつかさどる機能であろう、と。
そのことはアンドロステロンがフェロモンのひとつであるとするじゅうぶんな根拠となり得るだろうか?すなわち、いついかなる場所でも、すべてのホモ・サピエンスに対して同じ反応を引き起こすことのできる物質である、と。この点について科学者サイドはメディアよりも懐疑的である。事実、フェロモンを介したコミュニケーションは双方向的かつ個体間で行われるのが望ましいはずだが、研究者たちはヒトの女性フェロモンの同定にはいたらなかった。
そのことはアンドロステロンがフェロモンのひとつであるとするじゅうぶんな根拠となり得るだろうか?すなわちいついかなる場所でも、すべてのホモ・サピエンスに対して同じ反応を引き起こすことのできる物質である、と。この点について科学者サイドはメディアよりも懐疑的である。事実、フェロモンを介したコミュニケーションは双方向的かつ個体間で行われるのが望ましいはずだが、研究者たちはヒトの女性フェロモンの同定にはいたらなかった。
それではどのような結論が導き出されるのか?
科学者たちは、人間のなかにフェロモンが存在するか否かについては肯定も否定もできないと、現在のところは判断している。この主題に関する研究は体臭とフェロモンを混同している、あるいは科学的根拠に欠ける、などといった批判にさらされることが多かった。特定の実験を繰り返しても同じ結果が得られないのは集団サンプルが小さすぎたか、異質すぎたからだろう。あるいは利用した統計が信頼性に欠けるものだったからかもしれない。そしてペンシルバニア大学のリチャード・ドツやオックスフォード大学のトリストラム・ワイヤットのような研究者たちにとってはヒトフェロモンという概念そのものを再定義する必要があったのかもしれない。
仮に人間がフェロモンを感知したとしても、動物に観測される結果とは大きくかけ離れたものになるはずだ。野生の哺乳類の雌は時と場所を選ばずに、交尾をうながす信号をわずかでも受け取ると尻を突き出し身を反らせる(いわゆるロードシス反射というものだ)。周りがどんな状況であろうが気にすることなしに。一方で雄のほうは、その場限りの化学的メッセージを感知すると目の前に現れるすべてのものの上にのしかかる。社会的行動や性的行動が抑制によって特徴づけられている人間は、たとえ惹かれる香りを嗅いだとしてもそのように行動することはほとんどない。人間の前頭皮質は学習、記憶、言語、意志決定、芸術的創造といった最も洗練された認知機能をつかさどるとともに、それらの機能を報酬系のメカニズムのなかに統合する。ドーパミンの名で知られた分子を媒介にして。そしてこの脳内のドーパミン濃度は、香りを嗅いで楽しむときにも上昇する。期待される報酬(例えば性行為など)ならびに愛情ではなく肉体の快楽によって解放される強い感情の影響を受ける前頭皮質は、人間に見られる、特異なまでに複雑な性的行動の原因でもある。前戯はバリエーションに富み、長く続くこともある。自然界には決してそのようなものは存在せず、哺乳類は無防備になる時間を最短にとどめるため全速力でつがう。したがって、このようにかくも複雑な脳を持つ人間にとってフェロモンとは、実は無用の長物でしかないのかもしれない。
フェロモンは人間のようなかくも複雑な脳を持つ生物にとっては、実は無用の長物でしかないのかもしれない。
受け取る側に対し予測可能な反応を確実に引き起こすことができる、不可視の物質。確かに、幻想を助長させそうな要素は山ほどある。悲しいことに、フレグランスブランドや化粧品メーカーが「性フェロモン」の効果がありますよと約束したとしても、アンドロステロンを首に噴霧するだけではあなたの誘惑する力は少しも変わらないというわけだ。単なるプラシーボ効果でもかまわないと言うなら話は別だが。
翻訳:藤原寛明/監訳:中森友喜