相手や私たち自身にもしも匂いがなかったら、他者との関係はどうなっていただろうか?私たち個人のアイデンティティの重要な一部として、匂いには私たちについての多くの情報が含まれている:私たちが誰であるか、私たちの年齢、私たちの感情状態、私たちの健康など。各個人の身体には固有の匂いが刻印されているわけだが、その匂いは何から形成されるのだろう?もちろんその多くは汗からだが、しかしそればかりではない。体臭のもうひとつの出所は免疫システムにある。ドイツの細胞生物学教授ハンス・ハットと科学ジャーナリストのリジン・ディーが『愛のケミストリー(La chimie de l'amour)』(フランス国立科学研究センター、2009年刊)のなかで述べるところによれば、免疫システムは「体臭が個別化されるそのプロセスにおいて主要な役割を担っている。身体の各細胞には特徴的なタンパク質の一種が含まれており、その特徴は各人に固有のものである。そのタンパク質はCMH遺伝子(主要組織適合複合体)と呼ばれる30から50の遺伝子によって生み出され、その遺伝子が各個人に固有の細胞群にコード化を施す。細胞の死に際し細胞の分解が起こるとき、上記のタンパク質から出た副産物が汗腺に流れこみ、その物質が汗と混ざり合いことで匂いが発生するのである。このプロセスが遺伝子型(訳者注:ある生物の個体が持つ遺伝物質の構成)と密接に関係していることから、科学者たちのあいだでは同じ体臭はふたつとないという見解で一致している。しかしながら感情や年齢、あるいは月経周期、さらには癌や糖尿病といった病など、その匂いを変化させるさまざまな要因があることも事実である。糖尿病患者の血液は酸性に傾いているため、その吐息と分泌液からは特徴的なリンゴ臭がする。時間の経過とともにホルモンバランスは変化し、体内のバクテリアもまた同様に変化する。これと関連して、耳鼻咽喉科医のパトリス・トランは論文「匂いと社会の歴史(Odorat et histoire sociale)」(『コミュニケーションと言語』誌、第126号、2000年刊)において、思春期における自己イメージの混乱に着目している。すなわち思春期とは「男子は精液の匂いによって、女子は月経の匂いによって性別が確認される」時期である。彼はまた体臭というものが「それが生み出される社会的背景によっても強く条件づけられる」という事実にも注意をうながしている。「生のままの」身体も香りのつけられた身体も、体臭は「何よりも心理学的、感情的、社会学的環境因子によって決定づけられるものであり、嗅覚における自我は人格の形成にも大人同士のコミュニケーションにも不可欠な役割を担っている」というのが彼の見解である。体臭の変化に合わせてアイデンティティも変動する。私たち自身から発されるその匂いは、つまり私たちがこれまでの人生においてどのような経験をしてきたかを示すものでもある。
より日常に即した例として、汗と呼気は食生活によっても強く影響を受ける。ガーリック、オニオン、カレーなどのスパイスは、周囲にあまりよくない印象を与える匂いを助長する格好の例である。
Tシャツ実験
嗅覚的アイデンティティを構成するさまざまなパラメーターを考慮したとしても、まだ生まれたばかりの乳児が母親の匂いを正確にかぎ分けられるということは驚きに値する。ドイツの倫理学者である故マルグレット・シュライトの言によると、「乳児は匂いを区別することを迅速に学ぶようプログラムされている」。出生時にはもうすでに、新生児の嗅覚系統は羊水に含まれる匂いによって少なくとも2ヶ月のあいだ胎内で刺激を受けている。それによって嗅覚系統が早期に発達し、視覚系統と比べても始動がかなり早くなる。したがって例えば乳腺フェロモンのおかげで、新生児は乳房を目視することなく探し当てることができるのである。
新生児が嗅覚によって認識しているというこの説は時を経てもなお有効なままであり、「生物学的家族の一員に対して根源的な親しみを覚える」という人間の持つ能力の存在を認めている。こうして人は自分の両親、兄弟、姉妹を匂いでかぎ分けることができるというわけだ。着用されたTシャツの匂いからかぎ分けが可能かという実験において、「たいていの場合最も好まれる匂いというのは配偶者のそれであり」、「そのかぎ分け正答率は70%から80%にのぼった」と、嗅覚神経生物学者のロラン・サレスは著書『誘惑するためにはいい匂いである必要があるのか?(Faut-il sentir bon pour séduire?)』(クワ社、2015年刊)においてそう述べる。したがってある意味では人間は遺伝学的に適合した性的パートナーをその匂いだけで選ぶことができるのかもしれない。そうすれば近親交配のリスクも抑えることができるわけだから。アメリカの進化心理学者グレン・ヴァイスフェルドは同一家族内の一員同士における対立関係を調査するためにこのTシャツ実験を利用し以下のように結論した。「母親は思春期の子どもの匂いを好み、兄または弟は、姉または妹の匂いを好まない」。なお、それに関してハンス・ハットとリジン・ディーが補足するところによれば、「思春期になると子どもは父親に対する嫌悪感を募らせるようになる」。そしてグレン・ヴァイスフェルドは次のように締めくくる。「このような無意識の憎悪は、もしかしたら近親相姦を防ぐために自然の摂理がもたらした奸計なのかもしれない」。何とも興味深く、魅力的な仮説ではないか。
しかしロラン・サレスはこの仮説に対しては懐疑的である。「どのような人間の匂いがどのような人間に好まれるかを知るために十分突き詰められた分析が行われた例はひとつもない。これはまだ未解決の問題なのだ」。