LIVE AND LET DIE

By Lionel Paillès

香りを継ぐもの

リオネル・パイエス

ひとりの調香師が引退したり死を迎えることがあったとしても、その調香師の魂や存在は完全に消滅してしまうわけではない。彼らの成した作品はその死後もなお残るからだ。彼らの残す技術やノウハウもまたしかりで、彼らが後進の調香師たちにその知識や精神を伝授すれば、彼らの魂やスタイルはその若き調香師たちの作品のなかに生き続けていくことになるのである。そしてこのリレーはどこまでも果てしなく続いていく。

エルメス社内でこぞって口にされる言葉がある。それは、忘れられる作品はない、ということだ。換言すればこれは、何ごとも無から生まれるものはない、ということで、調香師たちの仕事はそれ以前の調香師たちが積み上げ蓄積してきた歴史の上に成り立っているわけであって、駆け出しの調香師たちが受ける最初の手ほどきはもちろんのこと、その後も彼らは香水に関する知識やノウハウをブランド内の先輩調香師や敬愛する先人たちから遺産として受け継いでいくのである。かくしてジャン=クロード・エレナもまたエドモン・ルドニツカから多くを学び吸収し、そしてそれを次なる若き世代へと伝えたのであった。「調香を学ぶということ、それは才能あふれる他の調香師たちの存在を知り、彼らの知識に学ぶということである」。エルメスの「カレーシュ」や「マダム・ロシャス」の調香師として知られる、ギィ・ロベールによる言葉である。そうした偉大な作品を成した先駆者たる調香師からその美学や技術を「継承したものたち」は、今度は彼らのほうがその受け継いだ遺産を後進へと託し、永続させる役割を担うことになるのである。

香水の処方を記したフォーミュラの所有権が作者たる調香師たちに属していないことは確かであるが(というのも、香水には著作権という概念は存在していないからだ)、それ以上に稀有で価値あるものを彼らは所有し、保持し、そしてそれを後世に向けて残すことができるのである。例えばそれは、インスピレーションであったり、アイデアであったり、あるいはリスクを恐れない大胆さであったりもするのだろう。そして組織的構図が明白なぶん、こうしたノウハウの継承は専属調香師を擁する同一ブランド内のほうが遺漏なく、首尾よく行われやすい。ディオール、エルメス、カルティエといった老舗ブランドが2000年代からこの専属調香師というポストをこぞって用意し始めたのにはまさにこうした背景もあったのだろう。

一方で、この継承には常に責任という重さがつきまとう。ジャン・ジャックもその重みが肩にのしかかるのを感じ続けてきたひとりだった。彼がキャロンに調香師として入社したのが2019年7月(ブランドの所有権がアリアン・ド・ロスチャイルドとベンジャミン・ド・ロスチャイルドに移って間もない時期だった)、そこで彼はメゾンの創始者であるエルネスト・ダルトロフが残したフォーミュラの数々を見出すことになる。「そこでの私の最初の仕事はダルトロフの脳内に入りこむことでした。かつて香水の処方を記したその頭脳の内部へと深く没入することで、当時の彼が何を考えていたのかを読み解こうとしたのです。その結果分かったことは、彼が各成分を配合する際に、男性的香り/女性的香りという本来相反するはずのふたつの要素を巧みに組み合わせ利用していたということです」。まさにその点こそが彼の作品の定義であると言っても過言ではあるまい。「彼の処方を読みこんだという経験がある今、恐れと不安はなくなったように思えます。まさか『エメモワ・コム・ジュ・スイ』にベチバーが10%も配合されていたなんて思いもよりませんでした。他のメゾンではまず考えられないことでしょう。このようにひとつの成分を過剰に配合することも不可能ではないのだと、ダルトロフの仕事によって蒙を啓かされたような気がします」。こうしてジャン・ジャックはキャロンの伝統を吸収しつつも、しかし彼自身が本来持っていた注意深く透徹したまなざしと遊び心も決して失ってはいない。それらはむしろ生理的な反射として出てくるものである。「香水を完成させようとするときはいつも決まって、それをかいでエルネストならどう言うだろう? ということを考えるんです。私の心は彼の承認を必要としているんです!」。

それぞれの修行時代

オリヴィエ・ポルジュは父から招かれてシャネルに入った。そしてその父もかつてはアンリ・ロベールの招きによりシャネルへと導かれていた。オリヴィエ・ポルジュが父から受け継いでいたものは才能や知識以上に何よりも情熱であったと言えたが、一方ジャック・ポルジュその人はと言えば、息子である彼に対し直接仕事について語ることはほとんどなかったという。シャネルのノウハウの核となる部分はチームでの共同作業を通して彼に伝承された。そしてそのノウハウは単に調香技術にとどまるものではなく、芳香植物の品種選定から原材料の購入、それらを加工する技術まで多岐におよんだ。というのもシャネルの創造原理において肝となるのは素材や成分どうしの組み合わせによる妙ではなく、それらをいかにしてあつかうか? という職人的手法や方法論のほうにこそ力点が置かれているからで、これにはまさに「ノウハウ」という言葉がぴったりと当てはまる。その創作原理を、オリヴィエ・ポルジュはまだ父も香水開発を担当していたその現場で、たっぷり1年かけて存分に学ぶことができたのであった。エルネスト・ボーから始まって、シャネルの調香師たちは常に何か新しい発明をしたり(例えばジャック・ポルジュは「ココ・マドモワゼル」のために純度の高いパチョリエッセンス「パチョリ・クール」を生み出した)、独創的な分子の使い方をしては香水に個性と革新性を与え続けてきた。「素材を洗練させる、と言うとき、私たちはその言葉を字義通りの意味として使っているのです。すなわち素材をしっかりと磨き上げ、練度を高める。そうしてからようやく素材どうしを組み合わせ、混ぜ合わせるのです」、そうオリヴィエ・ポルジュは強調する。かくして父ジャック・ポルジュの跡を継いだオリヴィエ・ポルジュは彼の創作理念も受け継ぐことになるのだが、とはいえ、その信条ははっきりと父の口から出たわけではない。だがあえてそれに具体的な言葉を与えるとするならば、それはおよそ次のようになるのではないか、とオリヴィエ・ポルジュは述べる。すなわち「豪奢であれ、しかし平静さと謙虚さも忘れることなかれ」と。だがここで注意しておきたいのは、たとえあるブランドの伝統を受け継いだとしても、その伝統は調香師が何か新たなことに挑戦したり革新性を追い求めること、驚きを生み出すことをさまたげるものではないということだ。ときに既存の定説を逸脱するようなことがあったとしても、調香師がその遺産によって縛られることは決してない。 2012年2月にルイ・ヴィトンの専属調香師となったジャック・キャヴァリエ・ベルトリュードにとって、香水とは何よりも家族の物語を意味していた。香料会社のシャラボで調香師を務めていた父から古典的な教育を施され、さらにはエドモン・ルドニツカの助手だったという経歴を持つ母のもと、彼はさまざまな香りやフォーミュラに囲まれた家のなかで香水文化にどっぷり浸かった子ども時代を過ごした。「私の嗅覚教育はまだ私がほんの子どもだったころ、すでに食卓の上で始まっておりました。両親が食事をしながら、オークモスやクマリンといった何やら奇妙な言葉を使って会話をしていたのです。私はその魔法のような響きを持つ言葉の数々を耳にしながら、まだ見ぬ未知の土地を思うときのようにうっとりとしていたものでした」。父からの手ほどきからは、まるで儀式のような厳かな空気が感じられたという。「そのとき私は12歳でした。父は香りをつけたムエットを私に渡し、私はそれを枕元のナイトテーブルに置いて眠りにつきました。香りをつけたばかりの『新鮮な』状態でかぐことは禁じられていたのです。私が課されていたのは朝に起きてからそれをかぐことでした。驚くべきことに当時のこの習慣は今も私のなかに残っていて、私は試作品を作ると夜にその香りをムエットにつけ、翌朝起きたときにそれを確認するようにしているのです」。父ジャン・キャヴァリエ・ベルトリュードは寡黙な人だった。それゆえ必然的に、少年は父の背中を見て学ぶことになった。「15歳だったとき、フランソワ・ドゥマシーのフォーミュラを分析しながらとても重要なことに気がつきました。つまり使用される原材料の種類が多ければ多ければ多いほど、素材どうしのあいだに生じる相互作用を制御することは困難になっていくということです」と、かつての少年はそう回想する。その彼が洞察するところによれば、調香師という仕事にはどこか、本能と理性とを混ぜ合わせなければならないようなところがある。しかも厄介なのは、そのふたつの中間が常に正解とは限らないということだ。あまり多くを語らなかった父から受け継いだ言葉もある。たいていの場合は最初にひらめいた直感が正しい、という原則だ。裏を返せばこれは、率直な気持ちを忘れずに、ということでもあるのだろう。父がくれた言葉がもうひとつある。すなわち「香水は理解されなければならない」。つまり香水は決して難解すぎてはならず、万人にとって分かりやすく明快なものであるべきだということだ。その息子だったジャック・キャヴァリエ・ベルトリュードが、今度はわが子に父から受け継いだ教えを授ける番だった。彼の跡を継ぐことを嘱望されている娘のカミーユに対し、彼は父のやり方とは対照的に、はっきりと口頭で言葉にして教えを伝承しようとしている。そうすることが結局のところ、知識を絶やさないための最も確実な方法だと思われるからだ。そして彼はこうもつけ加えている。「いつの日か調香師仲間たちと学校を設立し、そこで教えるのが私の夢です」と。

学校と言えば、まさにドミニク・ロピオンであろう。まさに歩く学校とでも呼ぶべき人で、自らの知識と経験を後進へと教え伝えるために、教育活動にたいへん熱心な調香師として知られる。勤務するIFF(インターナショナル・フレイバーズ・アンド・フレグランシズ)内に教育プログラムを立ち上げるだけでは飽き足らず、若き教え子であるファニー・バルに、実際の業務を通じて自らのメソッドを叩きこんできた。ロピオンは彼女がイジプカ(香水・化粧品・食品香料国際高等学院)を卒業したての新入社員だったころから面倒を見続けている。「来る日も来る日も飽きることなく、私たちは名香の構造を研究し続けていました」とファニー・バルは語る。「ロピオンは『ドラッカー・ノワール』のフォーミュラを私に渡し、それを10の異なる成分で再構成するよう課題を出しました」。それは香りを構築するためには必ずその土台に強固な骨格が必要となる、ということを教えるための課題であった。ドミニク・ロピオンに教えられたことを、彼女は日々の業務においてもしっかりと実践している。「彼と同じように、私は素材をアルファベット順ではなく系統ごとに分類するよう心がけています。そうすることで、フォーミュラのなかでその素材がどのような役割を果たすのか、具体的なビジョンがすぐに思い浮かぶようになるからです」。彼女は当時のことを思い出しながら、今もうっとりとした様子でこう続ける。「今の私があるのはひとえに彼のおかげと言ってよいでしょう。彼は自身の書いたフォーミュラをまったく惜しむ様子もなく私と共有してくれました。彼が私にしてくれたことを、いつか私も誰かにしてあげたいとそう願ってやみません」。

「秘密主義なんて私の性分じゃあありません」とミシェル・アルメラックは微笑を浮かべる。「好むと好まざるとにかかわらず、私はそれを、誰かと共有せずにはいられないのです!」

ごく自然な行い

 ジボダン調香学校初代校長を務めたジャン・カールは、それを実践すればどんなものでもハイレベルな調香技術を身につけることができるという革新的な教育メソッドを考案した(そしてそれは今も「ジャン・カール・メソッド」として同校で実践され続けている)。ジャン・カールがこのような教育方法を生み出そうとした背景には、師から弟子へと受け渡される知識の伝承において、その継承がひとえに師の気分次第となってしまっている印象が否めないという点に彼が憂慮していたからであった。彼は若い調香師たちに、師匠の顔色ばかりうかがわず、もっと自立性を持ってのびのびとやってもらいたかったのだ。古典的かつ普遍的な技術・知識を学べるこの教育メソッドは、しかし諸刃の剣でもあった。つまりジャン・カール・メソッドはグラースという象牙の塔の外部にいる若者たちにも門戸を開き、そうして調香師という職を民主化する一方で、師から弟子へと脈々とその精神と技術が受け継がれてきた、そのような伝統的な徒弟制度の存在意義を根底から覆してしまったのであった。

とはいえ、今や衰退しつつあるその徒弟制度的な関係のほうに重きを置いている調香師たちもいる。なかでもミシェル・アルメラックは、学ぶには「見ること、そして見ながら実践すること」こそが最善な方法だと信じてやまない。ゆえに講義形式のような教育にはあまり乗り気になれなかった。「若い調香師を助手として、そうして1年か2年いっしょに働くといった方法でこれまでやってきました。知識や技術を彼らに伝達する方法としては、私にとってはこのやり方がいちばんしっくりきます」。アン・フリポ、アマンディーヌ・クレール=マリー、ジェローム・エピネット、カリーヌ・ヴァンション、といったそうそうたる面々がこのアルメラックのマンツーマン指導から輩出している。「席を立つときには机に伴をかけていくくらい調香師は秘密主義だと言いますが、逆に私はその秘密をすぐに誰かに明かしたくなってしまうんです。秘密主義なんて私の性分じゃあありません。好むと好まざるとにかかわらず、私はそれを、誰かと共有せずにはいられないのです!」。

ピエール・ブルドンと出会ったジュリアン・ラスキネ(IFF)は、彼からの「オーダーメイドな」教育の恩恵に存分にあずかることができた。そしてそんなラスキネはブルドンの取った最後の弟子となった。かくしてその最後の3年間、ブルドンは自身が代表を務めるフレグランス・リソース社のラボラトリーと全フォーミュラをこの若き調香師のために開放したのであった。ブルドンにとってはこうした行いはごく当然のものとして自然に行われたものだった。なぜならそのときブルドンがジュリアン・ラスキネに託そうとしていたものというのは、それ以前にはジュリー・マセやジャン=クリストフ・エローにも託されており、そしてさらにさかのぼれば元はエドモン・ルドニツカが若きブルドンに対して託したものであったからだ。エドモン・ルドニツカと会うのは夜と週末に限られていたが、そのような限られた時間という制約があったからこそ、彼とのやり取りから密度のある学びが得られたとブルドンは語る。「水曜日には自転車に乗りながら、連れ立って周囲をぶらぶらと散策しました。それが済むとルドニツカは私の持参した試作品をかいで、改善点をレクチャーしてくれるのです」とブルドンは回想する。「5年間にわたり、私たちは週に2度香水について語り合いました。彼は警戒心が強く、若干、自意識過剰なところがありました。ですが私はそんな彼から言葉を引き出す才能に恵まれていたと思います」。その結果として、ブルドンはこの巨匠が確立した「シリーズ法」(ルドニツカ独自の原料分類システム)を見事に受け継いだのであった(「そしてそれはジャン・カールの考案した分類法よりも的確で画期的なものでした」とブルドンは語る)。

スタジオ・フレールの創設者のひとりとして知られるアメリ・ブルジョワは2019年にジャン=クロード・エレナとコラボレーションする機会に恵まれた。当時は一介の調香師にすぎなかったブルジョワに対し、ジャン=クロード・エレナはル・クヴォン・デ・ミニーム(同ブランドはル・クヴォンからそう改称されたところだった)のクリエーション・ディレクターとして名を馳せていた。ミニマリズムに裏打ちされたごくシンプルな香りの組み合わせを駆使するその職人芸的技巧には、彼女はその話が来るもう何年も前からひそかに私淑していたほどだった。いっぽうジャン=クロード・エレナはと言えばそれまでひとりも誰かを教えたことはなかった。「分量比率の繊細な調整法をジャン=クロード・エレナは教えてくれました」とアメリ・ブルジョワは語る。例えばクミンを0.02%使用しようとする彼女に対し、「もっと大胆にならなきゃだめだ! クミンを使うなら最低でも0.2%は入れなくちゃ」とはっぱをかけるのだった。「1グラム単位の調整ではあまり意味がありませんが、倍量にすることでそのちがいが鼻で分かるようになります。彼が教えてくれたのはそういうことだったのです」。彼とのあいだに交わされる何気ない会話ややり取りからも、可能な限り知識や方法を盗むよう努めた。「あるとき私がマリン系のアコードを組み立てようとしていたときのこと、彼はそこにゲラニオールを加えてみたらどうか、と言ってきました。するととても自然で海っぽい、何とも言えない湿った質感が生まれたのです。もちろん結果は大成功でした!」。そして今、彼と交わした数々の言葉が彼女の記憶のなかに鮮やかによみがえってくる。それらはどれも短く、何気ない調子で無造作に言い放たれたものだったが、そのどれもが正確さと含蓄に富んでいた。そう、まるで一篇の俳句のように。「マンダリンを使うことで、香水が笑顔になる」というのもまた彼女のよく覚えている、彼ならではの詩的台詞のひとつだった。まるで10年分の経験がその数ヶ月に凝縮されたかのような錯覚を彼女は抱いていた。そしてひとりの弟子さえ取ることのなかったジャン=クロード・エレナから、彼の遺産の一部を託されたのだと感じた。

振り返るな、続けよ

では何らかの理由でブランドの創業者が消え去ってしまうとき、そのブランドの歴史のなかで受け継がれてきた遺産のほうはいったいどうなってしまうのだろうか? 無慈悲なことに、創業者もろとも消え去ってしまうということも決して少なくはない。例えばオーナーのヴェロ・カーンを2018年に亡くしたヴェロ・プロフーモも、そうした消滅の危機に瀕したブランドのひとつであった。だがブランドそれ自体が消滅してしまったとしてもきっと、ありし日の彼女が世に問うた「オンダ」「ミト」といった作品が香水愛好家たちに与えたあの鮮烈な嗅覚的衝撃や、熱心なブロガーたちが熱に浮かされたように書きつづるポストのなかに、その痕跡はいつまでも生き続けるのだろう。だが何も可能なシナリオはこれひとつばかりではない。

オランダ出身のデザイナー・アートディレクターのイェルン・アウデ・ソフトゥーンが2004年に立ち上げたブランド、モナ・ディ・オリオ。そしてブランドと同名の調香師、モナ・ディ・オリオが2011年に非業の死をとげた。「ナタリー(それが調香師の本名であった)が逝ってしまってから、私がブランドの舵取りを引き継ぐことになりました」とイェルン・アウデ・ソフトゥーンは語る。「ですが、いつまでもくよくよと後ろを振り返ってばかりもいられないと感じています。しっかりと前を向き、笑顔で進んでいかなければ。悲しい思い出に打ちひしがれたブランドを運営していくなんて、少なくとも私はまっぴらごめんですから」。誰もがこんな風に心を切り替えることができればどんなに理想的なことだろう。そうした新たなる出発としての意味もこめて、亡き調香師が彼自身をイメージし構想を練っていたという「ヴィオレット・フュメ」を彼はブランドからリリースした。「ただしここからははっきりとした明確な姿勢を打ち出す必要があると感じました。ここからはもはやモナの香水ではないのだということをはっきりと人々が理解できるくらいの、明白な姿勢を。だからこそ私は外部から調香師を招いた『モノグラム』というコレクションを新たにスタートさせることにしたのです」。だがまだ残されている既存の香水に関しては、モナ・ディ・オリオがこの世に残した痕跡を忠実に保存し守り続けるよう努めた。彼女の作品の最たる特徴とは、光がきらめくような明るいノートと暗くミステリアスなトーンとを自在に使い分け組み合わせる、言わば明暗のコントラストにあったと言ってよかった。そして彼女の死後もなおモナ・ディ・オリオの香水製造を請け負っているアコール&パルファン、ならびに同社の代表を務めるオリヴィエ・モールは、使用原材料の選定などに関しても妥協することなくその高い水準を維持し続けている。

ル・ジャルダン・ホトルヴェもまた同じような問題に直面したニッチブランドであった。ニッチフレグランス黎明期の1975年に創設された先駆け的ブランドだが、創業者の死による断絶をへて、2016年に息子のミシェル・グツァッツによって復活を果たした。ここで問題となった争点は、創業者ユーリ・グツァッツの書き残した2,000あまりのフォーミュラを始めとした遺産を今後どう生かしていくべきか、ということだった。「まず私たちが始めたのは、香水系ブロガー諸氏にヒアリングを行い、父が残した作品のなかで今日においてもまだ意味を持ちそうなものをピックアップしてもらう、ということでした。まずはそこから始めてみようと思ったのです」。新たなる専属調香師には、ユーリ・グツァッツの熱烈なる信奉者を自認するジボダンのマクサンス・ムートが名乗りをあげた。ムートは創業者の作り上げた歴代のフレグランスに通底するひとつの共通項を探り当てていた。プチグランの存在である。「プチグランは人を幸福にする香りだと、そう父は常々口にしていました。父にとってそれはまさに庭園(ジャルダン)を、心を癒しリラックスできる場所を思い起こさせる香りだったのでしょう。私たちはこのシグネチャーを永遠に守り続けていこうと決めました」とミシェル・グツァッツは述べる。彼と妻クララの頭は、今はいかにしてブランドの精神を守っていくかということでいっぱいになってしまっている。「ユーリは肌につける香水にもルームフレグランスにも同じアコードをアレンジして使用するという手法を取っていました。これは当時としては誰も試みていなかった革新的アプローチでした」と同氏。

「近ごろオークモスとイチジクの葉の香りがするキャンドル『ムース・ミスティック』を完成させたマクサンスも、この精神を受け継ぎ、同作を香水にアレンジするべく開発作業に取り組んでいます」。そして亡き創業者へと誓った忠誠の証として、ミシェル・グツァッツは父が懇意にしていたマイソール産サンダルウッドとチュベローズの納入業者(印ウッタル・プラデーシュ州カンナウジ在住の業者だ)との関係を今も良好に保ち続けている。このようにして香りは守られ、そして受け継がれていくのである。

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