AROUND THE WORLD

By Aurélie Dematons

調香師たちのロスト・イン・トランスレーション

オーレリー・ドマトン

異なる文化における微妙な差異を理解し、その文化の背景に潜む嗅覚的コードを巧みに駆使することができるということはいかなるものなのか。新たな国での生活に適応することはそう容易なことであるはずはないが、そうした異邦の地での経験を活かすことができれば調香師たちにとってはまたとない切り札となるはずだ。社会的に適応することへの困難から新たなる嗅覚的発見まで、地球上を漂流した6人の調香師たちが自身の体験を語ってくれた。

文化人類学者のカレルヴォ・オバーグが「文化的ショック」という表現を初めて用いたのは1950年代のことだった。自国を離れたひとりの人間が異国の地において感じるストレスや混乱を指すこの用語の説明として、オバーグは次のように記している。「社会的相互コミュニケーションのなかに絶えず浸透し慣れ親しまれたあらゆる目印や象徴がいちどきに喪失されるため、そこで言い知れぬ不安が生じるのである」。しかしこうした不安は乗り越えることが可能である。周りの人々にどんな風に挨拶すればよいのか?あるいは公の場での振る舞いかた、必要なものをどこで調達するのか?といったことなど、そうした新しい規範やルールに長い時間をかけて同化、適応していくプロセスの果てに、人はそれを乗り越えることができるのである。それまであって当然のものだったはずの指標がすべて立ち消えてしまったとき、果たして嗅覚はどのような役割を果たすのだろうか?そのときそれは過去とのつながりをなお保ち続けるのであろうか?受け入れ先の国をよりよく観察し理解するための手がかりとしても、嗅覚は役立つのであろう。多文化的背景を持つ家族のもとに生まれ、幼少期より外国で人生を過ごしたものたちや、大人になってから個人的あるいは職業上の理由から祖国を出たものたち。調香師たちを取り巻く状況や移住した時期は各自さまざまであるが、カレルヴォ・オーバーグが定義した、異国の地に投げ出された人々がたどる諸段階を、彼らもまたそれぞれ異なる方法で経験したのである。その段階とはすなわち、発見、対立、適応、そして統合である。

「子ども時代を思い出そうとすると、ユズ、ヒノキ、そして少しキャラメルにも似たシソの香りが蘇ってきます。私はこれらの匂いをプルーストにおけるマドレーヌのようなものとして私の作る香水のなかにも取り入れたいと願っているのですが、これらが万人に対し訴えかけるものではないということもよく分かっています」とマン社の調香師、ジュリー・マッセは語る。彼女は日本で生まれ、幼少期を過ごした。彼女のなかに壮大な嗅覚的記憶の保管庫が形成されたのはそのときだ。彼女の父親は当時、現地にある香料会社の支社長を務めていた。「家のなかにはいつだってヨーロッパの香水がそこかしこに置いてありましたが、その一方で私はこの国に特有の香り、例えば木靴や『ヤタイ』(日本語で、一時的にその場に建てられた飲食スタンドを指す言葉です)の匂い、カツオ節、海藻、梅干しなど、この日本にしかない香りに囲まれて育ってきたのです」。

幼少期に体験した香りは記憶のなかに永遠に刻みこまれるとともに、その土地特有のローカルな文化の基礎を形成する。5歳になり自身の生家と日本を離れるとき、ジュリーはちくりと刺すような痛みを覚えたという。彼女が再び日本へと戻ってきたのはそれからしばらくたった後の、新婚旅行のときだった。彼女は夫に、自分がどんな場所で生まれ育ったのかを見てもらいたかったのだ。「私たちは両親の友人宅に滞在していたのですが、その家のおばあちゃんが一日じゅう料理を作って振る舞ってくれました。私は日本の味をすっかり忘れてしまっていたのですが、私の無意識が完全にそれを覚えていて、すぐに記憶のなかに蘇ってきたのでした」。

ハミッド・メラティ=カシャーニの生まれはドイツだが、幼少期を過ごしたのはイランだった。サフラン、アイスフラワー(ロウバイとも。学名:キモナントゥス。イランで非常にポピュラーな、冬に花が咲く低木の一種)、ローズウォーター、バスマティ米などの香りに包まれて彼は子ども時代を送った。「当時私たち家族はエスファハーンに住んでいて、カシャーンという街の近くに住む親族のもとによく通っていました。私の名前にも入っているこの街はバラ畑で有名でした。革命の折りにドイツへと移り住むことになったときのことは今でも鮮明に覚えています」と彼は語り、そして次のように続ける。「そこではまさに、すべてがまったくちがう風に香ってきたのです。それこそ空港に降りたったときから、何もかもがまったくちがう匂いだったのです!最初の困難はやはり言葉でした。話しかけられてついペルシャ語で答えてしまうなどということもよくありました。自分の国を離れるということはつまり、快適に過ごせる環境を手放すことだと思います。そこからは自分で適応する術を学ぶ他ありません。ですがそこでの経験は人生において一生の強みとなるのではないでしょうか」。

移住は存在の手がかりを見失わせるとともに、ときにトラウマになりかねないほどの本能的な恐怖を感じさせる。しかし前もってそのことが分かっていれば、恐慌をきたさないための策を講じ、安定化を図ることも可能だ。ピエール=コンスタンタン・ギュエロスはドイツへと向かう列車に乗っていたときのことを思い出す。「フランスを西から東へと横切る列車に乗っていると、異国への移行が緩やかに起こりつつあるのが感じられました。これから自分が飛びこんでいくことになる、そんな新たな感覚が待つ扉の前に立っているのを私は感じていました」。もしそこに何かなじみ深い匂いがあれば、この自国から外国への移行は少しは楽なものになるだろうか?ジェイコブ・ヴァレラにとってはまさにその通りだと言えた。彼の持つ嗅覚的背景は幼少期に親しんだカタルーニャ製の品々によって特徴づけられていた。それゆえ彼は妻とともに中国へ旅立つとき、それらを荷物のなかに忍びこませたのだった。サネックスのシャワージェル、そして2リットルものオーデコロンは「シーツを香らせるためのものでした」(そうすることがスペインの伝統的文化なのである)。さらにフェアリーの食器用洗剤など。病気に対する処方箋のごとき役割を果たすこれらのなじみ深い香りは、バスルームやキッチンといった家庭の中心である空間に、その場所に住みついた亡霊のようにいつまでも漂い続けていた。

「6人の世界旅行者たち」

ジュリー・マッセ
マン社調香師。日本で生まれ、5歳でフランスに渡る。

ハミッド・メラティ=カシャーニ
フィルメニッヒ主任調香師。ドイツ生まれ。イランで10年、ドイツで9年、ブラジルで6年、そしてパリとジュネーヴを行き来すること1年。現在はドバイに定住し10年になる。

ブルーノ・ジョバノヴィッチ
IFF(インターナショナル・フレイバー・アンド・フレグランス)シニア調香師。ドイツで3年を過ごした後、パリで3ヶ月、ニューヨークで5年、そこからパリへ引き返し3年、再びニューヨークへと戻り9年、そして2年前、またもやフランスの首都へと舞い戻る。

ピエール=コンスタンタン・ギュエロス
シムライズ、シニア調香師。ドイツに9年住む。4年をニューヨークで、3年をドバイで過ごした後、4年前よりフランスに暮らす。

マリオン・コステロ
ジボダン、シニア調香師。ニューヨークで1年、ブラジルで11年過ごす。2年前にパリに戻った。

ジェイコブ・ヴァレラ
高砂香料工業調香師。バルセロナに生まれる。ルクセンブルクに7年住み、バルセロナで9年、パリで5年、中国に3年住んだ後、2年前よりパリに居住。

フェーズ1:蜜月期

「旅立ちのときは確かに不安なものですが、同時にわくわくとした興奮も覚えるものです」と、そうコメントするのはブルーノ・ジョバノヴィッチだ。現在フランスを拠点として活動するこのセルビア人調香師は、ドイツに2年間赴任した際、その国に適応したい一心でテレビ番組を見ながら一生懸命ドイツ語を学んだという。「ユーモアを理解し駆使することができなければ、その言語をじゅうぶんに理解したとは言えません。なので私がドイツ語で人を笑わせることができたとき、私は勝ち誇り、しばし優越感に浸ったものです」。ドイツでの生活のなかでジョバノヴィッチは「プレッツェル、シナモン、バニラケーキなど」その国特有の香りをいくつも発見した。そのどれもが温かみがあり、歓迎的で、どこかスパイシーなニュアンスを感じさせる香りであった。それらはかつて東方から多くの製品を輸入していたオーストリア=ハンガリー二重帝国の時代の名残りなのだろう。「ドイツで暮らすということはすなわち、ドイツ伝統のクリスマスイベントにまつわるバリエーション豊かな香りを発見するということです」とピエール=コンスタンタン・ギュエロスが補足する。彼もまたドイツに2年住んでいた。その経験のおかげで彼は異なる歴史や香水文化に出会うことができたと語る。「フランスは何と言ってもカトリックの文化に根ざしているとともに、バロック的な趣味を持っています。ゆえに豪華絢爛で情熱的なものを奉じる傾向があります。一方ドイツはプロテスタントが宗派としては多数派であるため禁欲的な傾向が強く、感覚的な快楽はある種悪魔的な罪悪・堕落であるとする空気が醸成されています。それゆえドイツでは動物的な香りが避けられるのです。その一方で身体やスポーツ、環境への意識が高いため、高級香水市場では爽やかで清涼感のある香りが好まれます」。そのうえ、香水ブランドをめぐる状況も大きく異なっている。「1990年代のドイツの香水業界はフランスのそれとは明確なちがいがありました」とブルーノ・ジョバノヴィッチは回想する。「ですがフランスで有名なピエール・ブルドンやミシェル・アルメラックといった偉大な調香師たちが、ヨープ!、ジル・サンダー、ダビドフなど、ドイツで人気のあるブランドでも活躍していることを知ったときには感激したものでした」。

興奮と刺激に満ちた、こうしたハネムーンのような時間は果たしていつまで続くものなのだろうか?1年をニューヨークで、ついで11年をサンパウロで暮らしたマリオン・コステロは、この時間というものがいかなる影響をおよぼすのかをじっくりと観察してみた。「1年という時間はその国に適応するには短すぎますし、かと言ってうんざりして嫌になるにもまだ足りません。この1年という時間のなかでは、人はただただ驚きのなかに巻きこまれていくことしかできません」。ブラジルでの彼女にとっては、その驚きの源泉とはさまざまなフルーツであった。「まるで黒真珠のネックレスのような見た目のジャボチカバ(木の枝ではなく、幹の上に直接花が咲き果実がなる)からはクリーミーなミルクのような香りがし、シリグエラ(赤モンビンとも呼ばれる果物)はアプリコットやプラム、パイナップルを思わせるファセットでした。大人としての意識を持ったままこのような未知の風味を発見できるとは、とても貴重な得がたい経験でした」。新鮮なものに対し子どもが感じる喜びを、調香師としての自分が理性的に分析することによってその喜びは大きく増幅された。そんな気がした。

このような異国趣味はジェイコブ・ヴァレラにもインスピレーションを与えた。彼にとってその瞬間は中国に住んでいた当時、アパートの下に生えていた見知らぬ木を見つけたときに訪れた。キンモクセイであった。「私は何度も外へ出ていってはその香りを分析しようとしたものでした。私はその香りを香水で再現したいと思ったのです」と彼は語る。また、珍しい白茶を味わったときにも彼はその感覚を得た。「あたかもへディオン(ジャスミンの匂いを持つ分子として知られる)そのものをそのまま飲んでいるかのような、そんな印象を抱きました」。

フェーズ2:文化的ショックとの対峙

初期におけるこうした新たなる発見への好奇心は、しかしじょじょに移住先でのさまざまな事柄に対するいらだちへと取って代わられていくことになる。むろん、そこで際立つことになるのは香りに対するそれだ。ブルーノ・ジョヴァノヴィッチは次のように回想する。「ニューヨークで私を待っていたのは荒々しく乱暴な、まさにカオスのような匂いでした。メープルシロップとバターとシナモンが過剰に混じり合ったようなその匂いは、さながら起き抜けにかまされたパンチのように一発で私を目覚めさせました。あの街と比べたらミュンヘンなんて、何の匂いもしないも同然です!」。一方カタルーニャ出身のジェイコブ・ヴァレラはと言えば、パリに到着したときに鼻に届いてきたチーズの香りを幸せな思い出として今も覚えている。「私はその香りを全部かぎたいと思いしきりに鼻をくんくんとさせたものです。その結果、私は匂いでお腹がいっぱいになってしまったのでした」。それに対し中国で出会った「臭豆腐」の、何やら酸っぱさのある強烈な発酵臭を、彼は苦々しい思いとともに思い出す。「中国には火の通っていない生のものは何ひとつありませんでした。代わりに路地を支配していたのは揚げ物や何かを蒸しているときの香りです。それらが街中に満ち満ちていました」。このような匂いが絶えず自分を攻撃してきている、というような錯覚は、異国の地にひとり放り出されているという疎外感を強めかねない。それとまったく同じことが、まだ共有されていない文化的な食いちがいが露見した際にも言える。

「私が桃を思い浮かべようとしているとしましょう。ですがその桃はフランスの桃とはまったくちがうものなのです。なぜかって、スペインのカランダ桃(なおこの品種はEUによって保護原産地呼称に認定されている)はもっとオレンジ色でジューシーなんです」とジェイコブ・ヴァレラは彼が直面した齟齬について説明する。その例に限らず、そうした食いちがいに虚を突かれることは何度かあったという。「スペインでは、オーデコロンの香りは赤ん坊や清潔なシーツといったものを連想させます。ですがフランスに来てからオーデコロンを作ったところ、こういうのは何というか、ちょっと古臭い感じがするな、と言われてしまいました」。同じような落胆をピエール=コンスタンタン・ギュエロスも、ドイツ市場向けにギモーヴ(マシュマロ)の香りを作ったときに味わった。フランスではこのお菓子はオレンジフラワーの香りがするのが常なのだが、ドイツではスミレのアロマで香りづけするのが伝統なのだとそこで初めて知った。「ドイツとは80%は同じ文化を共有しているのだからと安心しきっていましたが、思わぬ細部に落とし穴があったというわけです」。

フェーズ3:調整と順応

この第3段階において、移住者は集団のなかへと溶けこむことになる。細かな手がかりをつかみ取り、現地人の前でどのように振る舞うべきか学ぶことによって、その国への適応を目指すのだ。ハミッド・メラティ=カシャーニもまた、ドバイでエミラティたち(アラブ首長国連邦を始めとした中東諸国における、外国籍を除くアラブ系の自国民)の習慣に順応することを学んだ。

「ドバイでは、同僚たちがラマダンの断食明けに試作品をチェックするように頼んでくるということがよくありました。それがもう朝っぱらから2時間3時間と続くのです!スーク(市場)にもよく足を運びました。そこで私は人々が香水とどのような関係を取り結んでいるかを学びました。彼らの所作を知るとともに、彼らがなぜあれほどまでに香水をたっぷりと体につけるのかを理解するべく努めました」。

そのスークで、ピエール=コンスタンタン・ギュエロスもまたミルクティを片手に現地人を観察していた。「そこへ行けば人々が思い出話に耽っているのを耳にすることができました。例えばおばあちゃんのケーキの思い出とか……」。その国における私的な領域へと果敢に足を踏み入れ、分け入っていくこと。そこでしか知り得ない微細な細部を知ることによって調香師たちは自らの調香を調整することができるし、場合によってはその経験が自らの香りのレパートリーを広げることにもつながる。「ニューヨークでは、例えばメロンなどのフルーティさが過剰な香りの扱いかたや、ムスキーで清潔感のあるノートを使って官能性を表現する術を学ぶことができました」とギュエロスは語る。一方マリオン・コステロはブラジルで、グリーンなノートを異なるさまざまなバリエーションで表現してみせた。「うっそうと生い茂るアマゾンの植生はとても豊かで、同じグリーンノートにもさまざまな緑があることを教えてくれました。土っぽい緑もありますし、フルーティな緑、柑橘っぽい緑もあるのです。そこで本来は、硫黄のニュアンスを含んだグレープフルーツ・パッションフルーツの香りを表現するために用いられるはずのパラディサミド(ジボダンが独占的に展開するキャプティブ分子)を、私はまったく別の用途で使ってみました。私にはそれがゴムの木を表現するのにぴったりだと思われたのです。ブラジルではゴムの木が成長しすぎて、その幹が街路にまで侵食していました。その光景が私の前に蘇ってきたのです」。

ひとつの国からまた別の国へと導かれていくなかで、ジェイコブ・ヴァレラは水という物質が持ち得るさまざまな香りのファセットを検討してきた。「例えば、ルクセンブルクの公園に行くと感じられる湿度の高いしっとりとした感じや、シッチェスにおける海岸の波しぶき、さらにはアジア向けの香水に使う透明感のあるノートや、水分を多く含んだ各種フルーツの香りなど、水に関するさまざまな香りの可能性を探りました」。それまで彼が訪れた国のそれぞれが、素材に関する新たな視点や見識を彼に対しもたらした。そしてそれらの情報を彼はとどめておくべき知識として、自身の記憶のなかに蓄積し続けてきたのであった。だがこれまでさまざまな国を渡り歩いてきた彼は、いったいどの言語でその記憶の蓄積を行ったというのだろうか?つい最近になって、彼はスペイン出身であるはずの自分が各成分のスペイン語名を知らないということにふと気がついた。子ども時代の記憶は母国語とともに刻まれているというのに、彼の個人的な「記憶のファイル」のなかに収められた技術的な情報に関しては、そのすべてがフランス語で項目分けされ整理されているのであった。このような理性と感情との橋渡しを、匂いが担っているということなのだろう。

「ドバイではスークで多くの時を過ごしました。そこで私は人々と香水がどのような関係を取り結んでいるかを学びました」(ハミッド・メラティ=カシャーニ)

フェーズ4:余裕と安定

「香水産業の国際化が進むこの時代において、セルビア、ドイツ、アメリカ、フランスと渡り歩くことによってブレンドされたそのような多文化的背景こそ、私が長き旅のなかで得ることのできた貴重な財産に他ならないと、そう自負しております」と、ブルーノ・ジョヴァノヴィッチはそんな風にまとめてみせる。ひとつの文化から別の文化へと移ってきた人間はこれまで挙げてきた段階をすべて乗りきることで、そこでようやくその国に適応し、統合され、各国において学ばれるべき美点をその収穫物として獲得することができるのである。「たぶん理想は、ドイツの厳格さとフランスの創造性、そこへさらにアメリカのビジネスセンスを組み合わせることなのでしょうね!」と彼は冗談めかして笑う。ジェイコブ・バレラは中国で、2つのちがった自分を演じ分けることをためらわなかった。中国人たちの好む「メイド・イン・フランス」のイメージで売りこみつつ、スペイン人としての陽気な親しみやすさをビジネスディナーの場で活かした。円卓上に所狭しと並べられた種類豊かな何皿もの料理を皆でシェアする中華料理は、スペイン料理におけるタパスのスタイルを彼に思い出させた。

彼ら世界旅行者たちの特質は、自国の文化とは異なる受け入れ先の国の文化との差異を尊重し賞賛しつつも、両者の共通点を見つけ出すことのできる能力に長けている点にあるのではないか。ピエール=コンスタンタン・ギュエロスは自らのルーツであるギリシャの文化とドバイでの生活様式のあいだに類似性があることに気がついた。特に「地元の人々が交わし合う温かなおしゃべりや、他者との時間の過ごしかたが似ているなと思いました」。

多くの国を経験することで、同じひとつのノートでも国ごとに感じかたがちがうということにも意識が向くようになった。そしてそうした気づきは、そのちがいを逆手に取り活かしてみせるということにもつながっている。「ローズノートに関してですが、タイーフのバラが大好きなエミラティたちにとってはそれ自体がリッチな香りに感じられますが、一方でローズウォーターを日常的に飲む習慣があるイラン人たちはむしろグルメノートのひとつとしてこの香りを感じています」とハミッド・メラティ=カシャーニは報告する。「それにパリとドバイでも、ひとつの香水の感じかたはまったくちがうものとなってくるわけです」。

「スペインでは、オーデコロンの香りは赤ん坊や清潔なシーツといったものを連想させます。ですがフランスに来てからオーデコロンを作ったところ、こういうのは何というか、ちょっと古臭い感じがするな、と言われてしまいました」(ジェイコブ・ヴァレラ)

フェーズ5:そして帰国へ、その先に待つもの

旅立つことが人を豊かにし成長させるのだとしたら、反対に帰国は何をもたらすのだろうか?ここでもささやかな適応が必要となる。すなわち旅行者が帰国後に陥ってしまいがちな、単調な日常への幻滅に対する適応が。「フランス市場にはブラジル市場のようなダイナミズムがないと感じました。私がいた11年のなかで、ブラジルの市場は何度も作り変えられ進化を繰り返してきたというのに」とマリオン・コステロはそう訴える。フランスへと帰ってくること、それは自分が不在のあいだにかつての同僚たちが築き上げた名声と対峙しなければならないということでもあった。そうした「祖国帰還者たち」に、より私的なレベルでつきまとうノスタルジーもある。「ある夜パリの通りを歩いていたら、火鍋(中国南部における伝統的なスープのことだ)の匂いが香ってきたのです」とジェイコブ・ヴァレラは語る。「そのとき私は中国からの嗅覚的ポストカードを受け取ったような感覚を得たのでした」。

フォーミュラ、マーケット知識、あるいは精神状態や心のありかた……。「ここではないどこかへ」と終わりなき旅を続けた彼ら調香師たちはそこからさまざまなリソースを持ち帰った。日本生まれのジュリア・マッセは、「小さくて繊細なものを愛で、細部へのこだわりを重んじる、そしてときに大胆さをも発揮する」そのような日本的精神を今も自らの内に保持している。マリオン・コステロはブラジル時代に話していたポルトガル語を今も自宅で使っている。その言葉は彼女にとってフランス語よりも陽気で、堅苦しくない感じがするからだ。ブルーノ・ジョヴァノヴィッチはアメリカで感じた自由について次のように語る。「フランスでは常に合理的であることが求められ、何を決めるにも議論が必要でした。ですがアメリカでは即座にイエスと言われ、すぐにゴーサインが出るんです。私にとってそのような風潮は驚きで、ショッキングでさえありましたが、クリエイターにとってはこれ以上ないほど刺激的で何よりありがたいものだと思います。私が外国にいるときに心地よく感じるのは、あの終わりなき発見のなかに自分がいるという感覚です。そのとき私は自分がひとりの子どもに戻ったかのように感じるのです」。常に開かれ、好奇心に満ち、そして永遠に若くあるための最善の方法。結局のところそれは、ノマドであるということではあるまいか。

翻訳:藤原寛明

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