THE SEX OF SCENT

By Denyse Beaulieu

香りの性別〜境い目が消えつつある男性用の香水と女性用の香水

ドニーズ・ボリウ

香りとは西欧的な定義に基づけば女性的なものだが、本質的には両性具有的(アンドロジナス)である。香り=香水はその対象とすべき性別について常にわれわれを煙に巻き続ける。フランスの偉大な香水・化粧品ブランド、ゲランの香水「ジッキー」(1889年)という金字塔の誕生以来、カルバン・クラインの「CKワン」(1994年)、ジャンポール・ゴルチエの「クラシック」(1993年)やティエリー・ミュグレーの「エンジェル」(1992年)といったステレオタイプにとらわれない名香からも見て取れるように、香水には、男性的ノートと女性的ノートの境界を曖昧にするとともに、さらには男と女という性別そのものの境界さえ曖昧にしてきた歴史がある。文化的慣習を手玉に取るという観点において、香水は性別の流動性を加速させる最も先鋭的な表現と言えるのかもしれない。

「これは男性用? それとも女性用?」そのような質問が、まだ正体の明かされていない香りを嗅いだときに決まって投げかけられる。そしてそのような質問をしてくるのはたいてい男の人なのだ。彼らはもし自分の体から違う性別向けに作られた香りがしたら、という考えにびくびくしている。そうなるのも仕方のないことである。香水は陰湿で、油断ならない狡猾さをもっている反面、非常に魅惑的なものであるからだ。西欧における哲学的な二分法の考えかたにおいては、香りは定義上は女性的なものである。これと対になるのは、その土地の風土に根ざした気高きワイン(「お酒の席で交わされる会話こそが本音」という故事もあるほど)であり、それはむしろ男らしいものに分類される。香水の香りは、化粧品や香水を扱う専門店「セフォラ」のWEB上のウィンドウの中で整然と分類されている。紳士(男性)たちにはウッディで素朴でいて、健康的かつ力強い香りが振り分けられ、淑女(女性)たちには果実や花々の柔らかな香りが割り当てられる。多くの人は直感に頼って香りを評価するため、このような男女による香りの性差の提案が疑問視されることはあまりない。しかし中東に出かけそこで香りを嗅ぐことがあれば、男女ともに性差なくローズとウードの香りを喜んで身につけているのを感じとることができるだろう。したがって何かの香りに男女の性別を割り当てるという考え方そのものが本質的にその国々の文化に根ざしたものであることが分かってくる。だが付け加えるとすれば、それは西欧においてはかなり最近になってからのことだった。

歴史的な名香「ジッキー」(1889年)から紐解く香水のジェンダー

フランスの偉大な香水・化粧品ブランド、ゲランの二代目調香師エメ・ゲランの創った名香「ジッキー」(1889年)は誰のためのものだったのか? 彼がイギリス留学中に出会った恋人(女性)との失恋にちなんでこの名前をつけたと公式には謳われているが、彼と「ジッキー」を共作し、彼の跡を継いでゲランの三代目調香師となる甥のジャック・ゲランのニックネームからつけられたという有力な説も消えてはいない。近代香水の黎明期には、製品カタログに男性用か女性用かが明記されることはあまりなかったが、当時「ジッキー」の曖昧さはちょっとした問題になった。おそらく、その名前が男性・女性どちらにもとれたからであろう。また、その香りも、合成香料を配合した最初の製品群のひとつであったため、当時としては異例なほど強烈でロングラスティングだったことも物議を醸すのに一役買った。簡潔に言えば、この両性的な作品は困ったことに、西欧的・キリスト教的な「普通」とか「自然」に反しているように思われたのである。つまり、「清潔さ=ラベンダー」、「野生味=シベット」、「娼婦のイメージ=フローラル」、「スイーツ=バニリンとクマリン」といった複数の香りの組み合わせによって、イメージを同時に想起させることで、対象となる性別がわかりにくくなったのだ。実際、小説家のマルセル・プルースト(男性)が「ジッキー」をつけていたとも言われている。そのことはアメリカの小説家トルーマン・カポーティ『叶えられた祈り』のなかに見ることができるが、カポーティはその逸話を、同性も対象とした華麗な恋愛遍歴で有名な女流作家コレットから聞き、そのコレットはフランスの芸術家ジャン・コクトーから聞いたという。1904年、プラトンのイデア論(二元論)になぞらえるかのように、ゲランの三代目調香師ジャック・ゲラン(すなわち、香水の神)は叔父の傑作「ジッキー」=両性具有的な香水の原型を分割して、ひと組のペア・フレグランスを誕生させた。「ベール ド マダム(婦人のベール)」と「ムシュワール ドゥ ムッシュ(紳士のハンカチ)」である。後者はより強い男性性を明確に意識した最初の香水だったのかもしれない。そこに使われたパウダリーなバラを含んだラベンダー・アコードは、それほど強く胸毛的な男性の要素を感じさせはしないが、歴史的にみるとそれらがむしろ「ジッキー」を男性的な香りに仕立てている。しかし、私たちは香水の香りを読み解くのに、文化的・歴史的背景から逃れることができない。ここで言いたいのは、エメ・ゲランが絶頂期に残した両性具有的な名香「ジッキー」は、香水の歴史上最も輝かしい功績を記した跡継ぎのジャックが、後からその意味づけ(性別の割り振り)を完成させたのではないか、ということだ。つまり、「ジッキー」の代表的後継作品でもある伝説的名香「シャリマー」(1925年)の影響があったと考えられる(ジャック・ゲランは「シャリマー」のなかにエチル・バニリンという合成香料を用いているが、それは「ジッキー」から着想を得たものであることは有名な話)。実際、「ジッキー」発売当時の1890年代の女性たちは、ラベンダーの香りをより男性的とみなしていたため、当時「ジッキー」は男性用と捉えられていたが、一方で「シャリマー」が発売された1920年代当時の女性たちは、「アンバー・オリエンタルの新しい傾向から、バニリンという甘い香りの側面をより受け入れやすく変化していて、『シャリマー』と似た調香をもつ『ジッキー』を次第に同じ女性香水の系統に分類するようになっていった」と、『Perfumer & Flavorist』(1985年6-7月号)マリリーン・デルブール・デルフィスは書いている。ゲランの四代目調香師ジャン=ポール・ゲランが「華麗なデコルテのイブニングドレスのよう」と例えた名香「シャリマー」は、かくして議論の余地のないほど女性向けのものとなったのと同時に、「ジッキー」にも女性的な香水という側面が与えられることになった。
さてさて、みなさんはこれまで混沌とした複雑な文章を読んできたと思うが、ようやく、いま何のことに「鼻」を突っ込んでいるのか道筋が分かってきて、ほっとしたころだと私は思う。

ギャルソンヌとフラッパー(1920年代)のための

だが残念なことに事はそう簡単には運ばない。事態はあっという間に複雑になってしまう。香水はファッションの世界のオートクチュールブランドの黎明期にそれらと融合することで女性サイドと結託してみせたのと同じように、今度は急にジェンダー・ベンダー(1980年代に流行した性別を判断できないような服装を身につけるスタイル)になったりもした。1919年、第一次世界大戦の塹壕から命からがら抜け出してきた生存者たちが自らのハンカチにキャロンの甘ったるい「ネメ・ク・モワ」の香りを染みこませ、 同メゾンの新作「タバック・ブロンド」をわれ先にと鼻を使って奪い合った。これは軍人=男性用だったのだろうか、 それとも女性用だった? いや、そのどちらでもなかったのだ。米国の軍人の口にくわえられたヴァージニア州産のタバコの煙にインスピレーションを得た調香師のエルネスト・ダルトロフは、喫煙する女性、ボブヘアのギャルソンヌ(少年のような髪型や服装でまとめた1920年代の女性ファッション)、フラッパー(赤い口紅、ボブ・カット、丈の短い袖なしショートドレスを身につけるなどした1920年代の女性ファッション)たちに「マスキュリン(男性的)」な香りを提案した初めての人物だった。このように男性の香りの要素を女性向けに転換させる手法の先駆者であったダルトロフは、さらに進んで、男性用フレグランスを「若さと美しさのフレグランス」として売り込んだ最初の人物でもあった。健康的な印象のラベンダーに、セクシーなバニラをあわせた「プール・アン・オム」(1934年)は、ギリシャの少年像を広告に登場させることで、その点を強調した。
一方、世界的ファッションデザイナーのガブリエル・シャネルはこのダルトロフからヒントを得た。時代の潮流を見事にとらえていた彼女は、自身の傑作シャネル「No.5」を解体し、ロシアンレザーを使った「キュイール ドゥ ルシー」(1924年)で、ギャルソンヌたちに解放の象徴となる香りを与えた。
革(キュイール)というものが狩猟、ドライブ、飛行といった男らしさのアクティビティと結びついていることを考えれば、シャネルが過去に男性の服装の規範をハイジャックして女性用ファッションに転用した時と同じことを繰り返したのだ。1936年の広告に掲載された文章では「決然とした足取りで、阿片の煙草を口にくわえ、手にはウィスキーの瓶を持つ」とこの香りが見事に言語化された。「スキャンダル」(ランバン、1933年発売|不祥事という意味)から「レヴォルト」(ランコム、1936年発売|反逆という意味)、「バンディ」(ロベール・ピゲ、1944年|無法者という意味)、「カボシャール」(パルファム グレ、1959年|強情っぱりという意味)に至るまで、各フレグランスメゾンが創作した同カテゴリの名香の名前を振り返ってみると、女性の肌にレザーを与えるという領空侵犯的なあえての裏切り行為の影響を強く意識していたことがうかがえる。

バランスの取れたフローラルな香りとかぐわしいシダの香り、それは マッチョであるかファム・ファタルであるかという、そんな戯画的なまでのステレオタイプの反映であった。

「バンディ」と「フラカ」が切り開いた1944年以降のジェンダーレス化

知られ得る限り、女性としてはじめて大成功した調香師の一人であるジェルメーヌ・セリエが調香した前述のロベール・ピゲの「バンディ」(1944年)は広く、性別の差にかけられたあらゆる留め金の調子を狂わせる可能性を持っていた。どういうことか? 土の入った灰皿に無造作に刺さったようなそのフローラルブーケは、セクシーな上目遣いで有名な米国の女優ローレン・バコールが活躍した1940年代に売られていた他の女性用香水と同じようなものだったのか? いや、セリエには先見の明があったのだ。このモノクロ映画女優のような「バンディ」と、歌姫のような「フラカ」という2つの名香を生み出したセリエは、香水が1980年代にようやく到達する性的二元を、1948年の時点で早くも予見していた。「バンディ」、つまりこのヒステリックなチュベローズの香りの後には実際四半世紀ものあいだ後継が現れなかったが、 「フラカ」はレーガン時代(1980–1991)にドラッグクイーンの領域にまで踏み込むかのような、過剰にフェミニンなフローラルの子孫を残すことになる。そのフローラルさはあまりに女性的で、例えばビバリーヒルズの高級ブティックが発売した香水「ジョルジオ・ビバリーヒルズ」(1981年)が想起させるような、男であることを示すファーストネームを隠そうとさえしない硬派なドラッグクイーンを連想させた。「バンディ」に話を戻せば、「バンディ」登場以前には実質的には存在しなかった男性用香水の代替品としても機能していた。調香師ベルナール・シャンは「バンディ」からインスピレーションを得て1959年「カボシャール」を発表したが、これをテンプレートにして女性から男性へ対象の性別を変更し、エスティ・ローダーの男性用香水「アラミス」(1965年)を生み出した。この作戦が大成功をおさめたため味をしめた彼はクリニークの「アロマティクス・エリクシール」(1972年発売)を使って同じことを繰り返した。すなわち、翌1973年に「アラミス900・ハーバル」と名前を変えたうえで男性向けとして発売したのだ(ロベルテ社のレジェンダリーな調香師ミシェル・アルメラックはそれらにはまちがいなくまったく同じ香料が使われていると明言している)。1950年代から1970年代にかけて、バイセクシャルな香りが人々から不評を買うようなことはなかったといえる。その当時の女性向けの香水は、活力あるグリーンノートによってバイセクシャルに表現されているものが多かった。しかし、ジェルメーヌ・セリエが生み出した「バンディ」と「フラカ」という2つの名香によって先取りされた香りのバイセクシャルなトレンドが続いていたのは1970年代後半までの間だった。ヨーロッパやアメリカだけでなくアジアや南米まで広く世界中をカバーするような、コミュニケーションコストのかかる国際的なリリースの増加にともない、世界の誰もが理解しやすい簡素でステレオタイプなメッセージが、再び伝播しはじめる。女性には、「プワゾン」(ディオール、1985年発売)、「イザティス」(ジバンシー、1984年発売)、「オスカー」 (オスカー・デ・ラ・レンタ、1977年発売)などといったバランスの取れたフローラルな香りが、そして男性には「ドラッカー・ノワール」(ギ・ラロッシュ、1982年発売)、「アザロ・プールオム」(アザロ、1978年発売)といったアロマティックなフゼアの香りが提供されるようになった。これらは旧式の男女観というステレオタイプを明確に反映しているように見えるが、前述の調香師ミシェル・アルメラックは含みを持たせるようにこう言う。「これらの香りが好調だったのは、そのそれぞれが強いアイデンティティを持っていたからだ。その時代にあって、それらは新しい香りだった」。

60年代以降のジェンダーフリーな香水の隆盛

一方で、18世紀以来、「オーデコロン」(1709年にドイツ・ケルンでヨハン・マリア・ファリナによって世界で最初に製造販売されて広く伝播した柑橘系の香りで香水の原型)は男女のどちらにも良い香りを提供しながら、どちらの側にも積極的に与することなく、続く香水の性革命の混乱からの安全な嗅覚的中立国として生き残る道を歩んできた。1927年、ファッションデザイナーのジャン・パトゥは女性アスリートのためにシトラスの香り「ルシアン」(フランス語で「彼の」「彼女の」という意味)を発表した。ジャン・パトゥは女性アスリートにスポーツウェアを着せた最初のデザイナーだった。当時の広告には、「スポーツは男女が平等な分野である」と記されていた。そして、「スポーツウーマンには男性的な香水が必要である」と続けながらも、「ルシアン」が「男性にも適している」ことを認めていた。1966年に男性向けとして発売されたディオールの名香「オー・ソヴァージュ」は、調香師のエドモン・ルドニツカによると、実際にはユニセックスフレグランスとして考案されたものだそうだ。「その控えめでありながら長く続くフローラルのフレッシュさは、まさに若さの象徴である」と彼は書き、若者たちはそのメッセージを理解して、男女の隔たりなくこぞってこの男性の香りを身につけた。
大成功を収めたオードランコム(1969年)とオーデロシャス(1970年)は、ありきたりな性差による誘惑の広告コピーから解放されたいという強い衝動を表現していた。「女性こそが男性用フレグランスの成功を左右するということを忘れないでください」と前述のミシェル・アルメラックは説明する。「女性は、夫やボーイフレンドのために男性用香水を選ぶのではなく、むしろ自分でその香りを身に着けたいのです」。 彼がなぜこんなことを発言するのかは彼の過去作を見てみればわかる。彼が名調香師ジャン・ルイ・シュザックとともにディオールのために共同製作した傑作的な男性用フローラル香水「ファーレンハイト」(1988年)は、女性が好んで男性から盗む香りの一つだ。カルバン・クラインの「CKワン」(1994年)は、1960年代に発売されたたくさんのオーデコロンが残した跡を継承した。1980年代のド派手な性的誇張の広告宣伝に対する反発として考案されたこの香りは、オーデコロンの普遍的な魅力を現代的に見事に翻訳したものだった。「みんなのための香り」というスローガンのもと発売された、調香師アルベルト・モリヤスの作品は、「日系人で、レズビアンでタトゥーあり」という、それまでにない新しいモデル像を打ち立てた米国のモデル、ジェニー・シミズなどの鮮烈なアイコンを先頭に立たせ、クリーンな白いTシャツという普遍的なイメージを中心にして、様々な香りを組み合わせることでジェンダー・アイデンティティ、性的嗜好、民族性や年代をクロスオーバーさせることに大成功した。

90年代の革新的な香水が切り拓いた新たな地平

香りの性別という厄介な問題に直面したジャン・ポール・ゴルチエは、「クラシック」(1993年、ジャック・キャバリエ作)と「ル・マル」(1995年、フランシス・クルジャン作)で正反対のアプローチをとった。カルバン・クラインのように性のステレオタイプの下をくぐり抜けるのではなく、ゴルチエは下着を上着に変えることで有名になった。「クラシック」のボトルのモチーフになった娼婦のピンクのコルセットと、「ル・マル」のボトルのモチーフ=水兵のマリンストライプのトップは、ゴルチエによって象徴として流用された文化的既視感のカタマリでもあり、それぞれの香水を視覚的に秀逸に表現していた。「クラシック」のライスパウダーのアコードと「ル・マル」の理容室のノートは、安価な化粧品によく使われるノートを高級香水として敢えて引用した最初の皮肉な作品たちだったかもしれない。一見すると奇抜に見えるゴルチエのジェンダーステレオタイプへのアプローチは、実際には多くの消費者を敬遠させないような巧みな遊び心に満ちていた。
ファッションデザイナーのティエリー・ミュグレーが生んだ名香「エンジェル」(1992年)もジェンダーの二元性を扱っているが、同じ天体の中にそれを刻み込んでいて、“絶世のヒゲ美人”歌姫コンチータかのように、天使の綿菓子にパチョリのヒゲを生やしている。伝説的な調香師オリヴィエ・クレスプは、この「エンジェル」の制作において、キャンディーアップルとプラリネのアコードの甘さを相殺するために、大量のウッディーノートを投入したそうだ。そこから、ウッディーな香りは、フランスの知性・哲人とも称される稀代のアーティスト、セルジュ・ルタンスが生んだ香水「フェミニテデュボワ」(1992年)にも続いて、女性用香水の通路の中に入り込むことに成功した。この香水はロシャスの「ファム」(1944年)に着想を得て、スパイスと果実を取り入れたもので(この香水の共同調香師のひとりピエール・ブルドンは、「ファム」を調香したエドモン・ルドニツカの弟子)、後のセルジュ・ルタンスの香水たちのスタイルのひな型となり、ひいてはその後に登場するすべてのニッチフレグランスの原型ともなった。

そしてニッチフレグランスへ

1970年代後半、業界における米国式の「マーケティング」の支配的な影響力の高まりに対する反発として生まれたニッチフレグランスは、そのほとんどが製品に性別を割り当てることを拒否してきた。この分野の先駆者たち(ラルチザン・パフューム、ディプティック)は、男性女性それぞれの理想像を香水の中に表現するのではなく、むしろ香りをひとつの具象的な調べ (ノート)、旅のなかで目にされるひとつの景色や思い出のようなものとしてとらえようとした。いかなる顔も映さない鏡から目をそらすとき、「香りをまとう者」は嗅覚そのものに立ち向かうことが可能となる。そこでは香りそのものが美的対象になると同時に、その自由なアプローチは「香りをまとう者」たちのそれぞれがさまざまな香りについて独自の解釈を生み出すことができるよううながしている。
 調香師ミシェル・アルメラックによれば、このように異なるふたつの性が互いを侵食し合っているような状態は、ニッチではないメインストリームの香水にも等しく認めることができるという。女性用のフレグランスにまぎれこむウッディかつアンバーなあの非常に「男性的な」ドライなノート、あるいは反対に、「ワンミリオン」(2008年、ラバンヌ)のごとく、男性的香りのなかに見出されるあのキャラメルのような香りといったように。「だんだんと、われわれは日々の生活の中に男女どちらにも使うことができるような香りを獲得しているのだ」(ミシェル・アルメラック談)。逆に、ニッチフレグランスはジェンダー化に逆戻りしているように見える。少なくとも、その概念の中で遊んでいるようだ。

ふたり一組的なフレグランスの先駆けだった「ベール ド マダム(婦人のベール)」と「ムシュワール ドゥ ムッシュ(紳士のハンカチ)」にインスパイアされた、米国のニッチフレグランスブランド、アーキストの「エル」と「エラ」(2016年)は、ふたつの香りのストラクチャーを通じて、70年代後半のメキシコの退廃的で妖しげな魅力を香りで再現した。担当した調香師ロドリゴ・フローレス・ルーはその香りの特徴を、エラ(彼女)のほうを青々しいシプレ、そしてエル(彼)のほうを増幅したフゼアによって明確に際立たせている、という。ふたつに共通するアニマリックなノートを互いにぶつけてこすり合わせることで、この「エル」と「エラ」はこの性別の問題のなかにこっそりと、性交の香りをも引き入れる。そして発情期においては動物はみな平等であると宣言するのである。

建築家と音楽家が体現する香水の新たな可能性

フランスの建築家でインテリアデザイナー、フィリップ・スタルクは長い間、非物質的なものに取り憑かれてきた。彼の代表作「ゴーストチェア」(透明色の樹脂でできた椅子)シリーズ、空気で膨らませることが可能なモンペリエの建築「ル・ニュアージュ」、喉の奥に吹きかけて一瞬で酔って、一瞬で覚めるアルコールスプレー「WA|HH」などにその傾向はみてとれる。この天才デザイナーは、自己と外部をつなぐインターフェースである皮膚をテーマにした 3つのフレグランスによって、ついに空気のデザインに着手した。とはいえ、いくら天才スタルクといえど、性別という概念から完全に自由になることができたわけではなかった。彼は「ポー ドゥ ソワ(2016年、シルクの皮膚という意味)」 (ドミニク・ロピオン作)を「女性らしさのなかに隠されていた男性的心が暴かれるかのような、そんな香り」と形容していたし、「ポー ダイユール(2016年、遥か彼方の皮膚という意味)」(ダフネ・ブジェ作)のことは「男の心のなかに隠されていた女性らしさのベールがはぎ取られたときのような、男性的香り」と例えていた。
皮膚とはたくさんの毛穴が開いた膜でもあるわけだが、ジェンダーはその膜の穴を通じて互いに影響し合う。スタルクの香水は、胎児の性別の決定に関わらない遺伝子=22本の常染色体と、XYの性染色体についての科学者の「性」の発現に対するグラーデーション的な考察を前提にしている。「それでも私たちは男がいる、女がいると二元的に言い続けていますが、それは馬鹿げていて、まったく単純すぎるのです」と彼はスイスの日刊紙「ル・タン」(2016年5月19日号)に熱く語っている。
この点において、イギリスの音楽家、概念的思想家、博学者でもあり、プライベートではフレグランスの制作も行なったブライアン・イーノは1989年の時点で、チェス盤でいえばすでに十手先を読んでいた。イーノが中心となったロックバンド「ロキシー・ミュージック」は、グラム・ロックの先駆者として性別の混合を誇張的なまでに押し進めた。また「アンビエント音楽」の祖として音楽にバイセクシャル的性質をも付与したイーノは、CDアルバムのテーマとして香りを選んだ。そのアルバムのタイトル自体「ネロリ」(1993年)という柑橘系の香料にちなんだものだったが、なかでも注目すべきなのはアメリカのラジオ局WNYCの出演時に行われたインタビューの転載記事だ。プルースト効果(特定のにおいが、それに結びつく記憶や感情を呼び起こす現象)という嗅覚現象の中でもよく知られた質問を引っぱり出してきたジャーナリストに対しブライアン・ イーノはこう答える。「私に言わせれば、香りと記憶との結びつきよりも、香りにあるもうひとつの側面のほうがずっと興味深いんです。つまり性別の役割と位置取りを再定義する方法としての香り、ということです」。その当時において、多くの女性がコンテンポラリーな男性用フレグランスをつけ、多くの男性がクラシックな女性用フレグランスをつけていることを説明しながら、彼はこう補足した。「男女のあいだにある、ある種の境界を越えるとき、今挙げたような人々はきっとこう言おうとしているんです。男性的・女性的などという伝統的二文法なんてもう続かないんだぞって。正反対におかれているように見える観念的な『男性性』と『女性性』の間には、実は切れない連続的なつながりがあって、その間のどこに自分を置くのかということは、本来自分で選びとることができるものなんだって」。目に見えない、無限に伸縮する肌である香水は、それぞれの体の曲線に合うように「カット」する必要はない。それぞれの調香=フォーミュラが男性的な香りと女性的な香りの境界をブレンドし、ぼかしてくれるからだ。
このように香水は、文化的慣習を手玉に取るという観点において、性別の流動性を加速させる最も先鋭的な表現であり続けてきた、と言える。


翻訳:藤原寛明・中森友喜/監訳:中森友喜

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