「調子はいかがですか?」という質問が携帯電話のディスプレイに表示される。それに対する回答をあなたは次の3つの選択肢のなかから選ぶ。「最高」「まあまあ」「良くない」。するとアプリがあなたの心拍数を測定してストレスレベルを評価し、ついで今日、あなたはどのような活動をする予定かとたずねる。あなたは答える。仕事、スポーツ、睡眠、などなど。すると独自のアルゴリズムが作動し、その日のあなたにぴったりな環境香水の調合が開始される。このアプリは資生堂が、世界初のスマートアロマディフューザー「ブリセント(BliScent)」のために開発したものである。そしてその「ブリセント」は内蔵された6種類の香料のカートリッジから、その日のユーザーのコンディションやアクティビティによって変わる3,000種類以上の香りをカスタムメイドでブレンドし、それを環境香水として噴霧することができる。「ブリセント」は近日中に商品化予定とのことであるが、匂いが心に与える作用を研究するアロマコロジーに長年関心を寄せ続けてきたこの日本企業の、技術革新の粋を集めたひと品と言えるだろう。 このアロマコロジーという学問はもとはと言えば、経験も趣味趣向もひいては文化的背景も異なるさまざまな個人に対しひとつの同じ匂いが与えられたとき、同じ心理的反応を引き出すことができるという考えから出発している。この認識に立脚することによって、嗅覚系を通じて精神状態がいかなる影響を受けるかということが理解されようというわけだ。実際、その嗅覚系は感情を司る大脳辺縁系へといたる特別なルートを持っている。匂いが人の精神状態に影響を与え得るということの考え自体は、古来より経験的に知られた事実でもあろう。またアロマテラピー(すなわち治療用エッセンシャルオイルを用いた療法)によっても、特定の植物が刺激的効果(レモン、ペパーミント)やリラックス効果(カモミール、ラベンダーなど)を与え得るということが証明されてもいる。アロマコロジーはここ30年ほどで発展した比較的新しい学問であると言え、その名称は1982年アメリカの非営利団体、フレグランス・ファウンデーションによって初めて使われた英語の「アロマ」と、「サイコロジー」の合成語がもととなっている。安堵、幸福、自信などといったそうした幅広いグラデーションをカバーする、感情と匂いとの関係性を研究する学問である。
アロマコロジーの誕生とともに、香水業界各社において自社製品への考えかたが一変した。というのは主にエッセンシャルオイル、合成分子、あるいは調合方法それ自体に関するものであったわけだが、アロマコロジーはそうした変化の結果として生まれた学問であると同時に、そのアロマコロジーの研究成果によってこのような変化がもたらされたとも言えた。くわえて1980年代より、これまでにはなかった種類の新たな試みが登場するようになった。そのひとつが香水によって引き起こされる生理現象を分析し、それを評価するプロトコルを開発することに特化した研究センターの創設であった(1984年に資生堂が東京に開設している)。さらには研究者との共同プロジェクト(1985年にジボダンが香りと感情をめぐる研究に着手)や大学とのコラボレーション(フィルメニッヒがジュネーヴ大学と、シムライズがトゥール大学と提携関係を結ぶ)、そして神経科学プログラム(シムライズが2000年代始めごろから着手)、その他にも斬新で野心的な取り組みが次々と開始されたのがこの時期であった。
感情をマッピングすること
これと同時期にあたる1982年、アメリカの香料会社IFF(インターナショナル・フレイバー・アンド・フレグランス)は研究開発部門の1セクションとして、アロマサイエンス課という部署を新設した。この部署はアロマと消費者の内に湧き起こる感情との関係を客観的に定式化することを目的に創設された。そうして新設されるが早いか、アロマサイエンス課は早速ひとつの野心的なプロジェクトに情熱を燃やし始めた。それは同社の有するすべての自然および合成成分を、それをかいだ消費者たちの感じた感情に応じて分類しマップ化するというものだった。招かれた消費者たちは香りをかいで、その香りを2本の軸によって区切られた円形の図のなかにそれぞれ当てはめるようにうながされた。そのふたつの軸のひとつは、対象となる香りが感情として「ポジティブか/ネガティブか」を示すもので、そしてもうひとつはその香りが被験者を「活性化(元気にさせる)させるか/非活性化(落ち着かせる、リラックスさせる)させるか」を判断するためのものだった。このシンプルな「ムード・マッピング」の時代がしばらく続いた後、嗅覚以外の他の感覚的特性をも参照することによって、各成分がどのような色や質感を有していると感じるかといったことまでをも知ることが可能となる、より広範なアプローチがこれに引き続いた。そしてこれらの成果として結実したのが、データベース「センテモーションズ(ScentEmotions)」であった。1997年発売のクリニーク「ハッピー」を制作するためにジャン=クロード・デルヴィルとロドリゴ・フロール=ルーがこれを活用したことで知られている。「今でもなおその香水は、たとえ目をつぶっていたとしても、喜びを感じさせる香りと認識されることでしょう」と、IFF消費者科学部部長、アルノー・モンテは請け負う。「『ムード・マッピング』と『センテモーションズ』は真に戦略的な意図に基づいて開発された強力なツールであると言えましょう。被験者の申告に基づくという、ある意味で主観的なデータのみに依拠したものであるということを差し引いたとしてもです。調香師のパレットに新しく加わる成分も順次、世界中でテストされることになります。このような体系的な、そして何年にもわたる継続的なデータの蓄積こそがこのツールの強みなのです」。
この「ムード・マッピング」と「センテモーションズ」の登場によって、香りに秘められた感情的力の可能性を探ることがこの企業の文化となったのだった。現在IFFに勤務するすべての調香師はこのツールを活用するよう推奨されている。数年前、IFFが「幸せの香水」の制作を受注した際には当然ながら「幸せな」成分がこのなかからピックアップされた。そしてこれを参照したドミニク・ロピオン、アンヌ・フリポ、オリヴィエ・ポルジュによってあの「ラヴィ・エ・ベル」が着想されたのだった。
成分を精査すること
これらのツールは今日においてもなお耳目を引く真新しさを保っているが、しかし上記のような、被験者の申告に基づきデータを構築するような方法は見直されつつある。現在では消費者の主観的意見よりも客観的データの取得と処理のほうに重点が置かれているのだ。まずは使用される成分がどのような作用をおよぼすのかを把握、測定し、その後他の成分との組み合わせや調合の効果を検証する。
「われわれ調香師にとって何かを作るということはさまざまな原材料を組み合わせるということを意味しています。その成分のそれぞれが、エネルギーを与えるものなのかそれともリラックス効果をもたらすものなのか、そしてその度合いはいかほどのものなのか、といったことをわれわれは熟知しているのです」と、日本の調合会社、高砂香料工業のイノベーションディレクター、ティボー・マードルは述べる。1981年よりこの高砂では脳波計測(EEG: Electroencephalographyの略。脳の電気活動を頭皮に配置したセンサーで計測する検査)が導入され始め、これによって被験者が与えられた匂いに対しどのような反応を起こしているかを客観的に計測することが可能となったのだった。「調香師はこうした情報すべてにアクセスできるため、作成中のフォーミュラがどのような効果を持ち得るのかある程度の予測を立てることができます。完成した調合の結果はもちろん確認の工程を経ます。理論が必ずしも現実と一致するとは限りませんので」。こうした実験での経験が活きたからこそ、高砂はアロマコロジー的方法論を早くから取り入れた企業のひとつとして、香水としては「リラクシング・フレグランス」(資生堂より1997年発売)や「ゼン」(同じく資生堂より2007年発売)、そしてボディケア用品としてはランコムの「ハイドラ・ゼン」シリーズやジョンソンズの「オリジナル・ベッドタイム・ローション」など、エネルギー増強やリラックス効果を謳った数多くの製品に取り組み、世に送り出すことができたのだろう。 高砂は競合他社と同じように、EEGで得られたデータを補強するために心拍数、体温、血流、瞳孔の動きなど、他の測定方法も組み合わせてデータを構築した。ここ数年における技術的進歩として注目を集める機能的磁気共鳴画像法(IRMf: Imagerie par Résonance Magnétique fonctionnelle)は脳の活動、特に辺縁系構造を始めとした脳における主要な領域の活動を、これまでになかった精度で観察することを可能にした。しかもその辺縁系構造は従来のEEGでは測定不可能な領域であった。こうしたテクノロジーは大変コストが高く、くわえて通常では医療の分野に使用が制限されたものであるため、この技術にアクセスできる調合会社は今日ではまだ少数に限られている。応用神経科学の知見を消費者向けに提供する企業とのパートナーシップを締結したIFFでは現在、子会社のLMRが独占している天然成分をIRMfで精査し、より詳しく吟味するという取り組みが行なわれている。たとえ効果がひと通り知られた原材料であったとしても、通りいっぺんの、ありがちで凡庸な謳い文句で満足するわけにはいかないからだ。「われわれは他社よりも優れた提案ができますよと示すこと、それが理想なのです。ただ単に、これはリラックス効果のあるラベンダーオイルです、と言うだけではだめなのです。これはどんな商品よりもいちばんリラックスできるラベンダーオイルなのです、このIFF・LMR製のラベンダーオイルが! そう言えなければならないのです」と、アルノー・モンテがその意図を補足する。「従来のエッセンシャルオイルと自社製品を比較することで、われわれは両者の作用を正確に把握することができます」とIFF・LMRのゼネラルマネージャー、ベルトラン・ド・プレヴィルは述べる。「そこで得られた結果を、すでにこの分野において既知となっている知識と照合することで、各成分中にどの分子が含まれ作用しているのかを調べることができます」。これらのデータを参照することで最適な抽出方法を決定することができ、また必要に応じて精製までのプロセスも明確なものとすることができる。特に分子蒸留には成分中にもとから含まれている特定の化合物を濃縮することができるといった特徴もある。
脳波測定、心機能および体温の測定などから得られたデータは、作成される香りがどのような効果を持つのか評価するために役立てられる。
試験の未来
それぞれのプロジェクトに最適化された成分レパートリーや枠組みを提示することで、調香師たちがこれから取り組もうとしている仕事の方向性を前もって導いてあげられるようになったこと、それがアロマコロジーのもたらした大きな貢献のひとつである。そしてもうひとつの貢献は、商品開発途中における検証に関わるものである。2017年、シムライズはコンピュータープログラム「ジェニシス(Gen-Isys: Generative Neuro-Implicit System)」を公式発表した。このプログラムは、香りおよびその香りの惹起するイメージに対し消費者たちの抱く意識下そして無意識下の反応を分析することで、より多角的な視点を得ることを目的に開発されたものである。通常のテストでは1セッション15分ほどを要する。被験者はふたつのコンピューターディスプレイと複数のカメラの前に座らされ、ムイエットにしみこんだ香りをかぐ。すると複数のツールによってその反応が収集され分析にかけられるのである。ソフトウェアは被験者がどのようなイメージを思い浮かべたかを算出し、そしてEEGヘッドセットによって脳のどの領域が活性化したかが特定される。さらにカメラが眼球運動と表情が変化する様子をしっかりととらえている。得られたすべてのデータは「ジェニシス」独自のアルゴリズムによって集計、総合のうえ検証され、その結果として、その香りをかいだとき実際消費者はどのように感じるのか、その商品を購入する可能性はあるのか、さらには再購入の可能性もあるだろうか、といったことがプログラムによって判断されるのである。
近ごろシムライズが「喜び」をテーマとした香水の制作に取り組んでいたときの話を、同社・消費者市場分析部門責任者のパトリシア・アーノスティは語った。「調香師から出された複数の案を、昔ながらの古典的な消費者テスト[原注:被験者の証言のみに依拠するそれを指すと思われる]にかけて検証しました。その結果、その案のうちの10個が「喜び」を感じさせるもの、すなわち要望に合致するものと判断されました。次に同じことを『ジェニシス』でやってみたところ、たった2つにしぼられたのでした。最終的に私たちはその2つをクライアントに提案しました」。ほぼすべての商品が市場に出る前にこの種のテストを繰り返し受けることになるが、それでも商業的失敗を免れるとは限らない。被験者の主観に基づくテストは今日においてもなお業界内で多用されているが、上記のごとき先進的測定ツールは、今後それらに代わるもの、少なくともそれらを補完するものとして運用される未来が考えられるだろう。
香りが実現するより良い生活
香りがわれわれにポジティブな影響を与えるということはもはや自明のことであろうが、それを踏まえれば香水を作るうえで重要なのは、いったいわれわれが何に対し嫌な思いをし苦痛を感じるかということを理解することなのではないだろうか。言い換えれば、そこで何が求められているのかということにしっかりと寄り添ったものを作ることが重要なのではないか。アロマコロジーが意識されるようになってからというもの、マーケティングチームは消費者の期待を満たす新しいコンセプトを創造するよう努めてきた。自殺者が著しく増加するという社会的困難を経験するなかで、資生堂は1997年「リラクシング・フレグランス」をリリースした。アロマコロジーに基づく香水として先駆的なものと位置づけられる、このフローラル・グリーン・ウッディといった特徴を持つ香りは現在では廃盤となってしまったものの、当時の日本人が深刻なまでにリラックスを必要としているという認識から生まれたものであった。その後こうした香水製品の他にも、資生堂はその守備範囲をじょじょにスキンケアのほうへと拡大していく。「スキンケア商品においても、香りが重要な要素であるということは早くから分かっておりました。と申しますのも、香りは心と体の両方に効能があるからです」、資生堂のサイエンスコミュニケーション部門ディレクター、ナタリー・ブルサールはそう証言する。「なかにはストレスの影響を中和することで皮膚のパラメータを間接的に改善させるという効能もあります。またいくつかのノートは皮脂のバランスを整える作用があることも確認され、さらにグレープフルーツのノートは代謝を促進するとともに脂質を燃焼させる、つまりダイエット効果があるということまで明らかなものとなったのです」。
セルライトやストレスの原因は往々にして日常生活にある。近年ジボダンは睡眠に関する大規模な研究を行い、その成果が「ドリームセンツ(DreamScentz)」として結実した。調香師が睡眠の質を高める香水を作ることを助ける特許技術だ。枕用ミスト、ナイトクリーム、柔軟剤、応用の可能性は多岐にわたる。すでに実現しているものとしては、噴霧用の香りカプセル「オリア」が挙げられるだろう。これをディフューザーにセットすることでスムーズな入眠とより良い質の睡眠が保証され、そのフレグランスが確かな効果を持っていることはEEGと各家庭でのユーザーテストにより証明済みである。「新たな需要が生み出されたと言うべきでしょう」とジボダン・自然香料部門責任者のエルヴェ・フレタイは語る。最初は『ドリームセンツ』をプレゼンテーションしてもクライアントはそれが何の役に立つのかあまり理解されていないようでした。ですが今では向こうのほうから相談に訪れるようになりました。睡眠というものがいかに私たちの社会において中心的問題となっているかが分かります。年齢や社会階級を問わず、万人に関わってくる問題なのですから」。またストレスに関しても同様のことが試みられている。IFFや高砂といった企業はマインドフルネスに関心を寄せ、近年の瞑想ブームにともない広まったこの無我の状態に、香りを使って導くことはできないかと模索している。
「すべてはテロワールのなかに」パティ・カナックへのインタビュー
香水・化粧品・食品香料国際高等学院(Isipca: Institut supérieur international du parfum,de la cosmétique et de lʼaromatique alimentaire)で教佃を取る一方で香水評価者も務める。嗅覚療法とアロマコロジーの専門家として知られ、フランスにおける先駆者のひとりと数えられる。このような経歴を持つパティ・カナックは独自の視点で香りの世界をとらえている。彼女はその世界を、産業、健康、幸福といった観点から見つめている。
なぜアロマコロジーは香水業界で注目されるまでこれほど時間がかかってしまったのでしょうか。
つい最近まで、ほとんどの企業はいかにクリエイティブであるか、いかに芸術的であり美しいかといったことばかりに気を取られてきました。調香師はひとりの芸術家であるという考えは、香りをもって治療しようという意図からはかけ離れたものだったのです。とはいえ、何もずっとそうだったというわけではありません。昔のオーデコロンなんてまさにアロマコロジーそのものではありませんか。柑橘類、香草、花など、そうした自然からの贈りものすべてを使って、人は長きにわたり心と体を癒してきました。そのような自然素材は皮膚を通じても呼吸を通じても実際に、体に対し明らかな効果がありました。植物の効能はよく知られておりました。それによって毒を盛ったり、呪ったり、治療したりする術もよく心得られておりました。とはいえそうしたことに関し証明が試みられたわけではなく、人はただ単に知識としてそれを知っていただけでした。まさに「おばあちゃんの知恵袋」的なものとして。
天然成分を例にお話しされていますが、アロマコロジーに合成成分は関わってこないのでしょうか。
例えば実験室で合成されるオイゲノールは、私に言わせれば物言わぬ静物のごときものなのです。その点、天然素材は生きています。したがってその産地(テロワール)を知ることが重要になってきます。テロワールはその素材がどこから来て、どんな物語を持っているのか、そしてどのような調合に適しているのかを教えてくれます。もちろん、おっしゃるように合成成分を用いることも可能ではあります。ですが使ったとしても、せいぜいのところプラシーボ効果くらいしか期待できないでしょう。これこれの製品が眠りを誘うものと信じていれば、そのような考えが心理的に眠りを誘発するということだってあるでしょうから。
香水業界はこのテーマにじゅうぶん通暁していると言えるのでしょうか。例えばエネルギーを増強させるような香水やリラックス効果のある洗剤といった、私たちの生活をより良くしてくれるような製品は作られるのでしょうか。
洗剤を作るためにアロマコロジストが呼ばれることがないのだけは確かでしょうね! あるとしても、それは流行を追うためというだけのことでしょう。とはいえあらゆる香り製品は、各人が人生において幸せだった瞬間に立ち返らせてくれるものです。もし素晴らしいベルガモットやチョコレートの香りで下着を洗うというようなことがあるとしたら、記憶がその香りに対応する感情の瞬間までたちまちのうちに巻き戻され、そのことが自律神経のバランスに影響を与え、実際にリラックスすることでしょう。しかしながら今述べたように、あらゆる香りが感情に影響を与えるものであるだけに、アロマコロジーとして効果を発揮する原料の匂いとの区別が曖昧なものとなり、ともすれば混乱をもたらしかねないものとなってしまっていることは否めません。
では香水業界が「本物の」アロマコロジーを実践するにはどういったことが必要となってくるのでしょうか。
まずは調香師の教育からでしょう。年齢や出た学校に関係なく、彼らは美的探求にばかりかまけていて植物の心理的効果を念頭に置くといった習慣がまるでありません。そのための教育を私は行なっているのです。次に挙げられるのは、植物に関して古くに書かれた文書を正確に読み解く力でしょう。その植物の効果をきちんと証明できなければそれは存在しないも同義ですし、ただでさえ心理学は科学的証明の難しい分野なので、それができなければ嘲笑の的となることでしょう。ですが大規模な研究を行えるのは資金潤沢な企業だけです。そのような大手企業はとにかく証拠をたくさん出してきますが、まったくといっていいほど製品のテロワールに言及しません。実際にはそのテロワールこそがすべてを語っているというのに。最後に、アロマコロジーには質が何よりも重要だということが認められることでしょう。ワインと同じことです。世界じゅうに品質の高いさまざまな偉大なワインがありますが、もしそれらがなくなればワインというジャンルそのものもそこで終わってしまうのです。さて今私たちが話している香水というジャンルでは、ダチュラやオリバンが足りないからといって自然を剽窃し、それでたくさんのボトルを満たしています。調合会社が自然を破壊することなしに徹底した品質管理を行うことができるとどうして信じられるでしょうか。今私がお話ししたことからもお分かりかと思いますが、そのようなわけでどの会社でもアロマコロジーの導入は躊躇されているのです。ですが、きっと数年のうちに状況は変わるだろうとそう私は信じています。
美の時代からウェルビーイングへ
ここ数十年のあいだはもっぱら喜びや快楽といった文脈のなかでのみ語られ続けてきた香水であるが、その香水をめぐる話題は今もなお美的側面にのみ限られているように思える。香水にそれ以上のものを求めること自体酷というものであろうが、だが実際にはクラランス「ロー・ディナミザント」が1987年に先取りし最近リリースされたイヴ・ロシェ「エナジー」「リラクゼーション」(ともに2016年発売)がその確信を強めたように、香水は美以外のものをもたらすものにじょじょに変わりつつあるのである。これはある種の進歩であるが、同時に原点回帰とも言えるのではないか。「香りにはかつて治療的な側面がありました」とIFFのベルナール・ド・プレヴィルは述べる。同氏が語るところによれば、より良く生きる(ウェルビーイング)という伝統に香水が回帰することは、例えば「香水にあまり興味を示さず、はっきりと分かるような利点を求めたがる」ミレニアル世代や「美としての側面ばかりを強調してきたこれまでのフレグランスには興をそそられなかった」中国の消費者たちのような、これまで集客が難しかった新たな顧客を獲得することに寄与することになるかもしれないということである。
このようなビジョンは一般的な層にも浸透しつつある気がする。香水市場における一般層への供給や香水について何が話されているのかを観察してみると、感情やウェルビーイングが用語として、あるいは考えかたとして、より一般的なものになりつつあるというそうした緩やかな変化が見て取れるからだ。一方ニッチフレグランスにおいても美の問題(すなわちそれがどのような香りなのか、ということ)を二の次にし、感情に対する香りの作用を重視する旨をマニフェストとして掲げるブランドが現れ始めた。2017年にアニマ・ヴィンチを立ち上げたナタリー・ヴィンチグエラは、1990年代に戦略的転換が行われたロレアルでグループリーダーを務めていた当時から自らのコンセプトを温め続けていた。「香水について何か新しい解釈はできないかと、そのための何か興味深い方法はないかという議論が続けられていました。これに関しては当時日本が先を行っていて、地下鉄や店舗内で香りを拡散させ人々を心地よくさせることが知られていました。そうした状況から私はアロマコロジーに関する著述だけではなく、基礎科学や中国医学、アーユルヴェーダなども勉強するようすすめられていました」。ビオテルム「オー・ビタミネ」の開発に関わってから20年後に自ブランドを立ち上げた彼女は、それまでに蓄積してきた知識から自身のコンセプトを開花させたのだった。なかでも「ウッド・オブ・ライフ」は「魂のつながりを強化する」とされ、「ライム・スピリット」は「心と体を刺激する」香水であるとされた。 こうした作品が今日一般からの支持を得ていること自体が、ここ30年間の道のりをそっくりそのまま体現していると言って差しつかえあるまい。つい最近まで香りが健康に良いものであるという考え自体エビデンスを欠くものであったのだから。嗅覚という分野の研究が始まってからまだ日が浅いということも思い出していただきたい。1991年に嗅覚受容体遺伝子群および嗅覚系による情報処理の初期段階を発見したリチャード・アクセルとリンダ・バックに対しノーベル賞が授与された2004年からようやく新たな時代が、すなわちこの分野の研究の深化の時代が始まったのである。
「嗅覚系が記憶と感情をつかさどる辺縁系と、身体への伝達を担う領域にリンクしてることはよく知られています」と、フランス国立科学研究センターで神経科学研究部門の責任者を務めるとともに同センター嗅覚研究グループの一員でもある(そして何より弊誌執筆陣のひとりである)イラック・グールデンは述べ、次のように要約する。「匂いを吸いこむとともに脳におけるこれらの領域が同時に活動を始めるため、どの回路がどの反応に関係しているのかを特定するのは困難です。例えば、うつ病に対するアロマコロジーの応用ケースでは良い結果が得られました。いくつかの香りに見られる短期的効果として、心拍数を下げることでウェルビーイングに迅速に作用するという結果が観測されたのです。しかしこれを長期で見た場合、感情に何らかの作用をもたらすことが分かってはいるものの、それがどのように機能するのかは正確には分かってはいないのです」。一見すると香水業界はこの未知の部分とうまいこと折り合いをつけている風に見えなくはない。しかしその実、香り、体、心の関係にはいまだ多くの謎が残されたままとなっている。
翻訳:藤原寛明