ー アニック・ル・ゲールさん、あなたの研究が道を開いたことで香りをめぐるアカデミックで知的な関心が高まり、それが今日における多数の出版物につながっているように思えます。嗅覚に向けられたアクチュアルな注目も、あなたのなされた貢献によるところが大きいでしょう。何より、あなたがいなければきっと弊誌だって存在しなかったにちがいありません!なのでまずはこのテーマに取り組まれることとなった経緯についてお聞かせ願えますか?
まだ私が小さかったころ、私の義理の父、つまり母の再婚後の夫のことですね。彼は私の育ての親であったわけですが、クリスチャン・ディオールに勤めておりました。そのためわが家にはたくさんの香水がありました。思えばこうした環境が私の感覚を鋭敏にしてくれたのかもしれません。私が博士論文の主題を選ぶ必要にせまられたときはまだ1980年代のほんの始まりにすぎず、アラン・コルバンやジョルジュ・ヴィガレロの研究も発表されておりませんでしたし、パトリック・ジュースキントのあの小説もまだ出版されていなかったころでした。そのような時代にあって、嗅覚と香りというテーマはまだ未開拓の分野だったわけです。哲学の世界では、嗅覚は動物的で、低位の感覚としか見なされておりませんでした。なのでこの主題について研究することは、あまりかんばしいことではなかったのです。そもそも当時まだ香りは、その美的側面しかクローズアップされておりませんでした。それが神殿で使われ、神を讃えるために捧げらた聖なるものだとは知っていても、セラピー的機能をも持ち得るものだとは人々には思いもよらないことだったのです。とにかくそれはまだ誰も足を踏み入れていない、まったく未開の地でした。だからこそ私はこの分野に興味を持ったのかもしれません。
ー 初期の著作では嗅覚が過小評価されているということについて多く取り上げられています。その嗅覚が今見事に復権を果たしたことを、あなたご自身はどうお考えになりますか?
私の初期の研究は、ディシプリン的には哲学と文化人類学の両方にまたがっておりました。具体的にに申し上げるとすれば、それは嗅覚の哲学でした。そのテーマを最初に取り上げ論じたのがその私の研究だったのです。そのなかで、私は嗅覚がなぜ哲学者たちからの不興を買っていたのかを説明しようと試みました。古代ギリシャの時代から早くも哲学者たちは視覚や聴覚に比べ、嗅覚を関心に値しないものと見なしておりました。嗅覚は快楽の感覚であり、知の感覚ではないと見なされたためです。このように嗅覚の軽視は非常に早いうちから観測され、この風潮が実に十八世紀ごろまで続きました。嗅覚について好意的に評価した哲学者はニーチェのようにほんのひと握りにすぎませんでしたが、次いで精神分析家たちがこの流れを引き継ぎました。フロイトにとっては、人間の原始的初期段階において重要な役割を担っていた嗅覚が成長によって意図的あるいは無意識的に抑えこまれることが、家族の、ひいては文明の発展につながるものとして不可欠なものでした。なのでフロイトの理論においては、嗅覚が鋭い人はその成長的抑圧への適応がじゅうぶんに行われていないと見なされ、神経症患者であると診断されたのです。この主張は調香師諸氏にとってはあまり聞こえのいいものではありませんね!むろん、今日においてはそうした考えがすべて時代遅れであることは知られておりますし、認識、記憶、コミュニケーションにおいて嗅覚の果たす役割の重要性もよく理解されております。それにフロイト自身、抑圧によって嗅覚が消えゆくにつれ幸福への適応も妨げられると、そう認めてもいるのです。私たちは感情や感性に関心が向けられる文明に生きています。ですが何世紀にもわたって、ただ理性だけが重要視されてきたのです。感情に興味を持つことは、弱さや非合理性の現れであると。一方で現代における知性の概念は感情面にも重きを置いており、そのことは神経学の研究によっても示されています。人間の理性的な部分だけを成長させても、存在は不完全なものとなってしまう。こうして1970年代より感情が重視され始め、そのことが嗅覚の復権へとつながっていきます。
ー いったいどのような経緯で香りにセラピー的な役割があると閃めかれたのでしょうか?
1980年代、香水といえば贅沢品で、確かにエレガンスや美に不可欠なものと見なされておりましたが、ですが決してそれ以上のものではありませんでした。私は香りに対し、本来それが宿していたすべての品位を取り戻し、また本来備わるすべての側面に光を当ててみたかったのです。私は古代から十九世紀までの医学書を渉猟するなかで、香りがその最初期においては治療薬として用いられ、何世紀にもわたり人々の生活において重要な役割を果たしてきたことを突き止めました。香りはさまざまな病気や疫病から人々を守り、治療し、ときに命を救うために使われていたのです。香りは単なる贅沢品にとどまらず、たいへん長きにわたって、こうした重要な治療的機能を果たしておりました。だからこそ今も私たちは無意識のうちに香りによって興味を引かれ、深く魅了されているのでしょう。
ー そのような治療的機能が他ならぬ嗅覚と結びついたことには何か象徴的な意味合いが感じられます。嗅覚をつかさどる器官と脳が物理的に近いということももちろん要因のひとつとして考えられるのでしょうが、他にはどのような要素がこの結びつきに介入してきているのでしょうか?
おっしゃるように、嗅覚が脳へ直接アクセスできることや鼻からの吸入によってその成分が容易に体内に浸透することなどが、それが良い匂いであれ悪い匂いであれ、香りというものが人体に対し良くも悪くも強力な力をおよぼす要因であるとされています。ですが香りに備わる治療的機能には、これとは別にもうふたつの要素も関わってくるのです。まずひとつは、太陽に関係することです。というのも古代より、かぐわしい香りを発する成分は太陽に関連するものであるとされていました。これらの成分は太陽に照りつけられる国で育つため、腐敗しにくいと考えられていたからです。ヘロドトスは紀元前五世紀、神聖な香気に満たされたアラビアこそが世界で唯一、乳香、没薬(ミルラ)、竜涎香(ラダナム)、桂皮香(シナモン)といったものが作られる国であると述べました。ファラオ期のエジプト人にとって香りは神々の血と汗であったため、そのような神秘的で超自然的な性質を付与された香りは、その起源からしてすでに治療的特質が認められていたのです。今から約1600年前にエジプト人たちの作っていたキフィがそうであったように、香りはひとつの薬として考えられておりました。このキフィもまた神々に捧げられるために作られる香りであり、そうすることによって人々は神からの加護を願いましたが、これが飲み物のなかに混ぜられ希釈されると、肺や腸、肝臓の病いを治す薬となり、さらにはワインのように酔わせることこそないものの、人をリラックスさせる効果があったのでした。人の立ち居振るまいや行動、気分に対し影響を与え、喜びやリラックスを与えもする……したがってこのキフィこそが「香り心理学(アロマコロジー)」の対象となる最初の調合例と言えるでしょう(この用語に関してはサラ・ブアースによる記事も参照されたい)。このように香りは神聖なものと結びつけて考えられてきたため、特別な治癒効果があると信じられてきたのです。
ー 他にはどのような例があるのでしょうか?
オウィディウスの『変身物語』には、病いにふした老王エソンがいよいよ死を迎えようかというときに、魔女メーデイアが強力な香りを用意しそれを飲ませると、エソンがみるみるうちに健康と若さを取り戻すという場面が描かれています。ですがそのような神話的枠組みを超えて、紀元前五世紀、ヒポクラテスが疫病を都市から追い払うためアテナイの市民たちに命じたところによると、香木を積み上げ火をつけて、焚いた香で街を満たすように指示したという、そうした史実も残されているのです。香りに備わる美点、長所は多くの医学的著述のなかで言及されています。例えばセージは殺菌作用と抗炎症作用を持ち、またローズマリーにも抗菌効果があるといったことがそれらの記述のなかに見て取れます。サリエットやメリッサも広く常用され、バラには治癒効果があったこと、さらには皇帝ネロが乱痴気騒ぎの際にこさえた青あざを消すために乳香を使ったという逸話も伝えられております。それに加え多種にわたる芳香物があったとされ、例えばリリーは風邪を治すために重宝され、虫下しにはルピナスが、そしてチガヤは坐骨神経痛の治療薬に用いられていたということです。ここまでくるともはや香りへの言及のない医学書を見つけることのほうが難しいでしょう。そして1853年にはゲランの「オーデコロン・アンペリアル」が皇后ウジェニーの頭痛を治すのに一役買いました。
これらの香りは塗布されるだけでなく内服用として経口摂取されるものでもありました。キフィは葡萄酒や牛乳のなかで薄められたうえで内服されました。あの有名なハンガリー王妃の水もアルコールで調合された後、当然度数は控えめであったものの、当時のオーデコロンがそうされていたように、ぐっと飲みほされました。体の内側から良い匂いを発散させなければならなかったのです。しゃべるときには口から良い匂いが香り、かぐわしい香気に包まれていなければならなかったのです。
『こころとからだ』
香りが喜びを与えてくれるのはもちろんのことだが、
しかし香りをかぐというこの行為を通じて、
私たちは癒されてもいるのではないか。
気分が落ちこんでいるとき、苦痛を感じているとき、
あるいは死につつあるときでさえ、
香りは救いの手を差しのべてくれているのではないか。
このように長きにわたり、香りは人間社会においてセラピー的な、
ときにスピリチュアルな役割を担ってきた。
そして現在、日常生活においても健康やメンタル、
感情にも大きな影響をおよぼしている。
こうした心と体の問題がいかに嗅覚と結びついているのか、
歴史、医学、各種実験や調査、あるいは宗教、
精神分析などといったさまざまなフィルターを通して探究する。
原始、香りは治療薬であった(アニック・ル・ゲールへのインタビュー)
論文「嗅覚の力」や「治癒する香り」といった数々の著述からも明らかなように、フランスの学術歴史家、人類学者で香水の専門家でもあるアニック・ル・ゲールはこの香りと嗅覚をめぐる研究の第一線で活躍する傑出した人物であると言えよう。特に香りの持つセラピー的側面を論じた功績で知られている。1980年代より早くもルゲレーは、古代から始まり近代化学の台頭へといたるまで、花、根、香草、樹脂、種子といったものがいかにして人々の健康を守るために使われてきたかを明らかにしている。
ー 先ほど香りと神聖さとのつながりを強調なさいました。今挙げられたオーデコロン、ハンガリー王妃の水は、中世の「アクア・ミラビリス(驚異の水)」の流れを継ぐものとして知られています。そしてその「アクア・ミラビリス」は当時修道院で作られていたわけですが……
おっしゃる通りです。「アクア・ミラビリス」は修道士たちの共同体によって生産されていました。そしてその最たる機能は、病いを治すことでした。とはいえ修道士たちはただその目的のために香りを生産するばかりでなく、彼らは修道院から発行される書物を通じて、それらが持つ医療的効果を公衆に伝達する役割をも担っていたのでした。例えばヒルデガルド・フォン・ビンゲンは十二世紀、自身がルペルツベルクに設立した修道院でさまざまな病いのための治療薬を調合するかたわら、『フィジカ(自然学)』を著し、そのなかで言及されるおよそ300種類もの香り成分がいかなる治療的効果を持っているかを詳述しました。また十三世紀から十四世紀に参照された医学的手引き書『タクイヌム・サニタティス(健康全書)』は、元は十一世紀にアラブで成立した書物に基づいて構成されたものでしたが、そのなかでもさまざまな治療効果のある香りを持った植物が紹介されています。こうした植物の美点や効能を世に知らせるミッションを全般的に果たしていたのが、今述べたような修道院や修道士たちのなした活動だったのです。古代エジプトでは神殿における香り作りが神官の手によって行われていたことからも明らかなように、香りが宗教に関わる者の特権と見なされていた時代は古くまでさかのぼります。大いなる厄災たるペストが猛威を振るった1348年以降は、その重心はじょじょに、領地内に薬草園を建立し常に治療用の香りを調合できる植物をそばに置いていたヨーロッパ各地の領主や王侯貴族たちに移っていきます。マルグリット・ド・ブルゴーニュ(1350年~1405年)はフランドル伯爵夫人、アルトワ伯爵夫人、ブルゴーニュ公爵夫人として、数ある領地のうちのふたつの地所、ジェルモルとルーヴルに香りの庭園を所有し、バラ、リリー、ラベンダー、ヒソップなどをベースに調合を行わせていました。最初の夫、フィリップ・ド・ブルゴーニュを1361年ペストにより失ってしまうと、マルグリットは新しい結婚相手のフィリップ・ルアルディをそれはそれは大切にしたのでした。なので中世の写本のなかに見出すことのできる流麗なる庭園の数々も、実はこのように、その景色や香りを楽しんで満足するためだけのものではなかったのです。
ー 今お話しされた王侯貴族たちが専属の調香師を雇い入れていたということもあったのでしょうか?
マルグリット・ド・ブルゴーニュに関しては、少なくとも彼女の記した書き物のなかからは調香師の存在を確認することはできませんが、彼女が人を使って植物を収集させ香りを作らせていたことは確かです。その時代における香りの生産は、薬剤師、手袋職人、雑貨商といった職業によって分業されるのが一般的でした。治療用の調合を行っていたのはやはり薬剤師でしょう。マルグリット・ド・ブルゴーニュの薬草園には蒸留機やアランビックがあり、その調合が庭園内で直接行われていたとされています。シャルル5世もルーヴル宮周辺に香りの庭園を構え、同じく薬剤師たちが彼のために香りを調合しました。
ー 続く十七、十八世紀には、香りを調合することは貴族の趣味のような感じになっていきますよね?
あまり知られてはいませんが、ルイ14世紀は治療用の香りを自ら調合することを大いに好んでいました。シャトレーの治安判事を務めていた法学者ニコラ・ドラ・マールの記したところによれば、国王は誰に知られることなく香りを調合し、しかもその匂いは最悪だったそうです!幸運にも彼は他にも多くの香りを使うことができました。「オード・ミルフルール」がそのひとつです。当然それらの持つ治療的効果は十七世紀において重要なものでした。ルイ14世に仕えた侍医のひとり、ルソー神父の言によれば、薬において重要なのはまずしっかりと香ることでした。ある製品に治療効果があるとすれば、それはしっかりと香ること、しかも良く香ることが重要だったのです。
ー 今おっしゃられた「良い香り」という概念ほど、時代によって大きく異なるものはありません。
古くは、治療で使われる香りも現代の私たちの基準で言う「良い香り」でした。ところがルネサンス期になるとその効果を強める目的から、サソリの粉、真珠の粉、ユニコーンの角(もちろん実際にはイッカクの角です)などといった、毒性はありますが解毒作用もあると考えられていた材料が調合のなかに加えられるようになりました。さらにペストが猛威をふるった十七世紀においては、疫病の拡大を前に従来の香りが治療薬としてほとんど役に立たないことが露見したことから、硫黄、火薬、ヒ素といった極めて毒性の強い素材が防疫薬の調合に加えられるようになっていきます。当時は悪臭が体に染みこみ臓器を腐敗させると考えられていたため、その悪臭を放逐するために良い香りを他の極めて強い匂いを持った素材で増強させるといったことが試みられていたのです。
香りが治療目的で使われる時代は化学薬品が登場するまで続きましたが、それより前にあの1810年の勅令が決定的な変化を告げていました。この勅令をもって、ナポレオンは西欧における香りと薬の分離を行ったのです。元はと言えばこの措置は、市場に出回る粗悪品から公衆を保護するためのものでした。香水業者が治療用の調合を市場に出そうとする際には、それを秘薬委員会に提出し、その調合に本当に治療効果を持つ材料が含まれているのか評価を受けなければならないと定められていました。
ー 他の文化にも同じような運用や使用法は見られるのでしょうか?
良い香りはどのような文化においても神聖なものと結びつき、反対に悪い香りは死や腐敗と関連づけられます。同じように、楽園には花の、フローラルな香りが満ちており、そして地獄には物が腐ったような匂いで充満していると考えられているわけです。もちろん時代によって微妙なニュアンスのちがいはあるでしょう。例えばムスクはその野生的なところとは裏腹に、良い香りであるとされていました。そのためモスクを建造するモルタルのなかにも混ぜ合わせられていました。十字軍によって東洋の宮廷から持ち帰られたアンバーも同様でしたが、ムスクは気分を高揚させることに秀でており、さらには悲しみを消し去り、免疫力を向上させるなど、さまざまな効能があるとされていました。一般的に、アラブ人たち、特にムハンマドにとって香りは治療と衛生に特別な効果をもたらすものでした。「セージ(sauge)」という語はラテン語の「救うこと(salvare)」に由来し、アラブ文化圏においてもセージは「サルマ(salma)」という、「救済をもたらすもの」という意味の言葉で呼ばれています。̶̶ アラン・コルバンが『瘴気と黄水仙』のなかで述べておりますが、十九世紀末の医学の発見によって病因を突き止め、病気の媒介物質と単に嫌な匂いを発する瘴気とを明確に区別することが可能となりました。1880年にはブルワルデルが、当時どのようなことが認識されていたかについて次のように要約しています。「悪臭を放つものすべてが人を殺すわけではない。そして人を殺すものすべてが悪臭を放つわけではない」。かくして嗅覚は門番としての役目を失い、その機能は快楽を得ることだけに縮小してしまったかのように思えます。それでもなお今日において、まだ治療に対し香りが有効であると言えるのでしょうか?
ここ数年間で香りの持つ治療的効果には再び注目が集まっています。例えばがん治療のための病棟や、さらには一般の病院においても、エッセンシャルオイルが患者のストレスをやわらげ、食欲を取り戻させ、より良い睡眠に導くために役立てられています。緩和ケアサービスにおいても同様です。ガルシュにある病院では、昏睡状態から目覚めた病人に失った言葉の使いかたを思い出させるために香りが使われています。ベラルーシのミンスク所在の子ども用ホスピスと高等香水学校パリ校とが連携し、治療不可能な病いにかかった小児患者のためにオーダーメイドの香りを作り、よりどころとなるその香水への愛着を通じてストレスと戦うための避難所を提供する、「天使の香り」という人道的取り組みも例に挙げることができるでしょう。化学薬品の登場とともに一時は影をひそめていた、香りにおける治療あるいはケアという役割が、いかに再び有効性を取り戻しつつあるかをこれらの例は示していると言えるのではないでしょうか。
翻訳:藤原寛明