FROM THE NOSE TO THE MOUTH

A discussion with Patrick Rambourg

Interview by
Eugénie Briot

進化を続けるガストロノミー

パトリック・ランブールへのインタビュー(聞き手:ウジェニー・ブリオ)

調理および食文化の歴史家であるパトリック・ランブールは、自身もまた料理人であった。調理職の職業能力証明書(CAP: Certificat d'Aptitude Professionnelle)を得た後はサルト県やパリを始めとした多くのレストランで研鑽を積んだ。研究者としては異色のこの経験を活かし、彼は料理の歴史の上に独自の眼差しを投げかけるとともに、歴史上香水とも多く関わってきたこの芸術との対話を現在も続けている。

料理の歴史の研究者としては、どのようなテーマでデビューされたのでしょうか?

私の最初の著書は「シヴェ・ド・リエーヴル(野ウサギの赤ワイン煮こみ)」を主題としたものでした。フランス料理のなかでは最も歴史が古いクラシックな料理のひとつです。私は幼いころからずっと「血のつなぎ」がなければ「本物の」シヴェ・ド・リエーヴルとは言わない、とそう口酸っぱく言われているのを聞いていました。「血のつなぎ」というのはすなわち、鍋のなかに小麦粉を入れとろみをつけたうえでさらに野ウサギの血を加え、ソースをより濃厚かつなめらかにする仕上げの工程のことを指します。ですが研究を続けているうちに、私はこの方法が初めて現れたのが十八世紀ごろであり、さらに一般に普及し始めたのが十九世紀ごろであったということに気づいたのです。つまりこの料理は何百年ものあいだ、血を使わず作られていたことが明らかになったのでした。たとえ中世から受け継がれてきたものであったとしても、料理の技法というものが長い歴史のなかで刻々と変化し続けてきたものであるということがこの例からうかがい知れましょう。何世紀ものあいだ同じ料理名で呼ばれてきたレシピでも、社会や人々の味覚の変化に応じて修正と適応を繰り返してきたのです。なので料理は当然、歴史だけではなく日常生活の喜びにも深く関わるものであるというわけです。

「たとえ中世から受け継がれてきたものであったとしても、料理の技法は長い歴史のなかで刻々と変化し続けてきました」

香水業界でも、伝統的な構造を持つ配合が時代によって変化したり使用される原材料も技術や文化的要因によって導入されたり廃止されたりといった現象が見られます。料理の世界でも同じことが言えると思うのですが、新しい材料が登場したり別のものと置き換わったりしてきた例としては、どのようなものが挙げられるのでしょうか? その要因や背景もあわせてお教えいただければ幸いです。 

シヴェ・ド・リエーヴルで言えば、野ウサギの血はまちがいなく特別な材料と言えるでしょう。と申しますのも血液は生と死を同時に象徴するものだからです。文化的な観点から見れば血はさまざまな迷信を呼ぶものでもあったため、それが料理の素材として一般に浸透するには長い時間を要したわけです。それに動物の血は採取後素早く処理しなければ腐って使えなくなってしまうため、技術的な困難もありました。そして動物の血を保存するための技術が向上し始めたのがまさに十八世紀から十九世紀にかけてだったのです。つまり血という材料がこの時期からさまざまな料理に使われるようになったことは単なる偶然ではなく、このような論理的な帰結であったということになります。

冷蔵技術の向上は1970年代から1980年代にかけて興った「ヌーベル・キュイジーヌ(新たなる現代的料理)」においても決定的な役割を果たしました。そのヌーベル・キュイジーヌにおいては食材をとにかく新鮮でフレッシュな状態で使用することが至上命題として信奉されておりました。魚はほとんど火を通さず供されます。肉も同様で、それまで豚肉はサナダムシや旋毛虫といった寄生虫病を予防するためよく焼かれるのが常でしたが、以降は多少はレアめでも提供可能になりました。これらのことが可能になったのはすべて冷蔵庫や冷却装置、冷凍庫といった新技術の登場のおかげでした。それまでは塩漬け、乾燥、燻製、砂糖漬けにするといった処理を施すか、あるいは加工肉にしたり缶詰めにするなどという方法を取るしか食材を保存することはできなかったのです。牛を屠殺した後は、特に夏場などは数日以内に消費しなければなりませんでした。それが現在では逆に、レストランで提供される牛肉は冷蔵庫で最低2週間は寝かせて熟成させてからサーブされるのが一般的です。

1970年代ごろに普及したフードミキサーもヌーベル・キュイジーヌの隆盛に一役買いました。この新技術により野菜を濃厚でなめらかなピューレにできるようになり、こうして素材そのものを尊重しつつ味覚にとってより軽い形状に変化させることが可能になったのです。

いくつかの食材は人々の味覚に変化を起こさせる重要な役割を担いました。

おっしゃる通りです。九世紀から十世紀にかけてはスパイスの使用が普及し始め、これが重要な味覚の転換期となるとともに、その風味が中世貴族たちに供される料理を強く特徴づけることになったのです。ルネサンス期になると貿易が盛んになり、スパイス(特に胡椒)は格段に手に入りやすくなりました。貴族以外の社会階級にも浸透するなど、その普及は目覚ましい速さで進んでいきました。砂糖への嗜好が高まったのもこのころです。それまで砂糖は薬として使用されておりましたが、以降は富裕層だけに許された贅沢な甘味としてその役割を変えることとなりました。またこの時代を境にフランスでは塩味と甘味に明確な区別がつけられ始めます。十七世紀から十八世紀になると甘いものは食事の最後に押しやられるようになり、これがデザートとして定着するようになったのです。

もうひとつは、バターです。バターは十六世紀なかばごろから影響力を増していき料理本にも多く記載されるようになってきますが、その背景にはある宗教上の理由がありました。中世の食事はそのすべてが「肉食の日」と「精進の日」という区別に基づいており、教会はこの「精進の日」に動物性のものを食することを認めておりませんでした。パリでは毎週水曜、金曜、土曜日、そして四旬節を始めとした教会が定める特定の期間が「精進の日」にあたりその規則が守られておりましたが、一方ブルターニュやノルマンディーを始めとしたフランス西部ではその時期バターに代わる油分が入手困難な状況にありました。そのため十五世紀末ごろから精進の日でもバターの消費が容認されるようになり、そこからあらゆる料理でバターが他の油脂より優先されて使用されるようになったのです。

「それまで砂糖は薬として使用されておりましたが、富裕層だけに許された贅沢な甘味としてその役割を変えることとなりました」

料理界の発展あるいは変化に寄与したものとして、食材以外にはどのような要因が考えられるのでしょうか?

経済、社会、あるいは文化、そうしたさまざまな文脈が料理の変遷に影響を与えてきました。高価ゆえにエリート層にしか許されていなかったいくつかの食材がある時期から一般に普及していったというのもその例と言えましょう。ですがただただ純粋に流行から廃れていったという例もあります。エスコフィエの伝統的料理、鴨肉のオレンジ風味は30年ほど前でしたらどの高級レストランへ行っても必ずと言っていいほど見かけたものですが、今となってはほとんど例外的と言いましょうか、いえ、むしろ現代風にアレンジされるようになったというほうが正確かもしれません。鴨が一匹まるまる使われることはもはやなく、薄くスライスされ、少し甘めのビガラードソースと供されることが今日では一般的です。流行はこのようにして移り変わっていくのです。

フランスに特有の味覚的特徴というものはあるのでしょうか?

国ごとに異なる味覚的特徴はかなり早い時期から確認されていました。中世末期のフランスでは酸味が好まれていたのに対し、イタリアでは甘味に重きが置かれ、砂糖や蜂蜜が料理に加えられたりフルーツが添えられる傾向にありました。このことは当時からイタリアのワインがより甘口で、フランス、特にイル=ド=フランスのワインが長らく酸味をその特徴としていたことが関係していると考えられています。

香水業界がフランス的ノウハウによって成り立っているのと同じように、今ではフランスは美食の国としてもその地位を確立しています。それはなぜでしょうか?

なぜフランス料理がひとつの芸術として発展することができたかというと、そこには少なくともふたつの特殊な事情が関係しています。まずひとつには、フランスでは料理がひとつの専門職として職人たちの手によって発展継承されてきたからです。これは他の国では大きく異なる点です。確かにイタリアにも優れた料理文化が根づいておりますが、ピザやパスタなどあくまで庶民的なものが中心です。もうひとつの要因としては、フランスでは料理芸術がエリート層に供されるものとして、パリという高度に中央集権化された共同体のなかで発達したということです。この点も、ドイツやイタリアとは異なっておりました。このふたつの国では権力の構造が複数の都市や地域に分散されていたからです。

フランスが美食という分野で占めている国際的地位については実に興味深いものがあります。フランス料理がフランスという国のアイデンティティをなすものでありながら、同時に世界中に広く拡散していったからです。ルネサンス期からすでにフランス料理は他の国民国家に認められておりました。フランスの料理人たちは外国で働くことを求められ、実際多くの料理人たちが英国、ロシア、プロイセンの宮廷で腕を振るうとともに、もう少し後の時代になると合衆国へも旅立っていきました。またそれらの国で十七世紀以降に書かれた料理書もこの影響を色濃く受けています。

それら多くの言語で書かれた本に収録された料理用語をご覧いただければご納得いただけるかと思います。例えばイタリア料理も広く海外に伝わりましたが、フランス料理とは対照的に、貧しいことが多かった移民の人々を通して持ち出されたため、必然的に大衆的なレパートリーが主流になりました。

フランス料理において高度な芸術性と創造性が生まれた背景とはいかなるものだったのでしょうか?

フランス語で書かれた本格的な料理の理論書が登場し始めたのが、中世十三世紀から十四世紀ごろのことでした。これらはそれまで口承によって受け継がれていた伝統を文字に起こしたもので、もともとはプロの料理人たちが使うための一種の覚書きとして作られるようになったものでした。彼らは基礎の部分は自身でしっかりと把握しておりましたので、火入れの時間や材料の分量などはそこには記載されておりません。この種の書物において当時のベストセラーになったのは『ル・ヴィアンディエ(料理全般に関する書)』でした。この書物は国王シャルル5世の「筆頭料理人」でありシャルル6世の料理監督も務めたギョーム・ティレル(1310年~1395年)の伝えたレシピや技法をもとに編纂されたとされています。そのように伝えられたレシピを固定化し体系化したうえで普及させるという伝統はまさにこの本から始まったと言われています。時代によって異なるいくつかのバージョンが確認されていることからも、必要だと判断されたらたとえ新しい要素でも認めて取り入れる、そのような柔軟さも合わせ持っていたことが分かります。

フランス料理においてもうひとつの重要な要素は、1760年代にパリで誕生したレストランでした。このレストランという施設・システムの登場によってフランス料理の芸術性が広く普及するとともに、料理人同士の競争意識も高まったのでした。それまで高級料理というものは屋敷か大邸宅といった私的で限られた場でしか作られていなかったわけですが、以降は新たな消費者にも門戸が開かれることになったのです。料理人たちはそれまでまるで気にすることなどなかった世間からの評価に直面することになります。顧客を惹きつけるべく同業者同士が差別化を図る必要に迫られ、こうして各自が切磋琢磨しながらも創造性を高め合う競争の時代に入ったのでした。

「1760年代のパリではレストランが誕生し、高級料理の門戸が新たな消費者たちに向けて開かれました」

今日における食品業界にも同様のロジックを当てはめることができそうですね。

まさにおっしゃる通りで、今日の食品業界も、今私がフランス料理を例に申し上げた創造性のダイナミズムを見事に継承していると言えます。市場が大きすぎるがゆえ個人ではその規模を実感することは難しいかもしれませんが、例えばフランスに滞在される外国人旅行者の方々はフランスの冷凍食品の持つ並外れた種類の豊富さに感嘆の声を上げているのをよく耳にします。一般消費者向け大手食品メーカー各社は、例えばトロワグロが1990年代に好評を博したサーモンのオゼイユソースがけや、ここ10年ほどでスーパーマーケットの冷蔵コーナーでもよく見かけるようになったミニ・フォンダンショコラなど、シェフたちが生み出した流行をいち早く取り入れることに余念がありません。一方、高級レストランの場でも変化が訪れています。パスタ、クレープ、ハンバーガーなど、それまで贅沢品とは考えられていなかった大衆的なレパートリーもグランシェフたちによって取り上げられる機会が増えてきています。

今ご紹介いただいた大衆料理と高級料理との対比は、香水の世界で言うところの高級香水と(例えばシャワージェルや洗剤のような)香りのつけられた日用品との関係に通ずるところがあると思います。どちらの分野においても両者の関係は単純ではなく多くの示唆に富み、常に新しく更新され続けています。香水の文脈で言えば、ニッチフレグレンスが現れ始めたのは1970年代ですが、1990年代終わりごろからじょじょに市場においてその頭角を現すようになってきます。ニッチフレグランスは人間に備わる嗅覚それ自体をひとつの主題としてクローズアップするとともに、成分や素材そのものに大きな価値を置き、香水というジャンルを消費ではなく分析の対象としたところにその特徴を見て取ることができます。いかがでしょう、このニッチフレグランスをガストロノミーにおけるヌーベル・キュイジーヌに当てはめて考えることはできないでしょうか?

奇しくもヌーベル・キュイジーヌが誕生したのもまさに同じ1970年代のことになります。アンリ・ゴーとクリスチャン・ミヨーという『パリ・プレス』誌におけるふたりのジャーナリストの後押しによってこのムーブメントは産声を上げました。このふたりのポリシーは格式ある名門レストランだからといって盲目的に神聖視するようなことはせず、例えばレストラン・アスニエールのミシェル・ゲラールのようにそれほど評価されてはいないものの豊かな才能を持つシェフたちの創造性と革新性に光を当てることでした。とはいえ決して単純な伝統批判に陥ることはなく、ヌーベル・キュイジーヌはスタイルの進化を称揚し、シンプルさや軽さを重視するとともに、食材そのものの本来の風味を尊重し活かすことを目指しておりました。それまでソースのとろみづけには小麦粉をバターで炒めたルーが使われていたわけですが、代わりにソースそのものを煮詰めることによって濃度をつけたり、ヨーグルトや無脂肪のクリームチーズ、または脂肪分20%のフレッシュクリームが使われるようになりました。南仏のハーブにみだりに頼ったり出来合いの汎用ソースを使用したりすることなどもやはり批判の対象になりました。もう少し広い視野から申し上げるとすれば、格式に凝り固まり旧態依然としたこれまでの料理法では現代のライフスタイルにはそぐわないどころか創造性も失われていくままであると、そう判断されたのです。

1970年代は香水業界でも軽さがクローズアップされました。爽やかな香水が大流行し、またグリーンノートやアルデヒド香水に対する嗜好が高まったのもこの時期です。このような動きは視覚的な芸術にも見て取れるように思えます。例えばファッション業界においてはプレタポルテ(既製服)が登場し始め、オートクチュール中心だった敷居の高さが次第に民主化され、簡素化される方向へと進んでいきました。

ではこちらも視覚面に関してお話しするとしましょう。ガストロノミーにおける視線の歴史をひもとけば、皿の上に向けられる注意と関心は時代を経るごとに次第に高まっていったということが確認できるでしょう。ですがその視線も、まずは皿に向けられる以前には卓上に、そして同じお皿でも大皿から小皿へと、そのように人々の視線の対象は歴史的変遷をたどっていったのだということをまずは申し上げておきたいと思います。十九世紀から二十世紀にかけては、卓上に食事の始めからすべての料理をいちどきに、とにかく豪勢に並べる「フランス式サービス」から、ひと皿ひと皿順番に提供する「ロシア式サービス」へとじょじょに移り変わっていきました。「フランス式」においては装飾はテーブル全体に所狭しと施されていたのに対し、この「ロシア式」ではデコレーションは皿単位で行われ、その分テーブルには花を飾ったり食器一式を準備するためのスペースが余白として残されることになりました。「フランス式」でも「ロシア式」でも料理は「プラ(plat)」と呼ばれる大皿で提供されそこから各人に取り分けられるのが常でしたが、1980年代になるといよいよ現在主流となっている、より小さなお皿の上にひとり分のポーションだけが盛りつけられた「アシェット(assiette)」でのサービスが採用されます。デコレーションはお皿の上の料理に対して施され、卓上の装飾はごてごてと飾りつけず、料理を引き立たせるための慎ましさが求められるようになります。そして今日ではホールスタッフを介するまでもなく、シェフがレストランへの来店者ひとりひとりと直接顔を合わせ、料理や味について話ができる、そんな時代がやって来たのです。

「ガストロノミーにおける視線の歴史をひもとけば、皿の上に注がれる注意と関心が次第に高まっていったということが確認できるでしょう」。

パトリック・ランブールの主な著書は下記の通りである。『フランス料理と美食の歴史』(シリーズ「Tempus」、ペラン、2010年)。『芸術と食卓』(シタデル&マズノ、2016年)。

翻訳:藤原寛明

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