NATURAL VS. SYNTHETIC

By Delphine de Swardt

フレーバー、自然より本物らしい香り

ドルフィーヌ・ド・スワール

ときに味の不足を補い、ときに薬のような苦味をやわらげ、さらにはまったく別種の旨味をも生み出したりと、この添加成分はさまざまな目的や場面に応じて使用されるが、まったく新しいものをゼロから作りあげるというよりかは既存の食材を模倣して作られることのほうが多い。そのように何かに似せて物を作り出すことを長きにわたり担ってきたのは化学合成であったが、現在では天然由来の成分もまた改良の結果、抽出元の原材料を思い起こさせるほどのものになりつつある。

食品産業の工業化が進むにしたがいその当然の帰結として、何か口に入るものがあるところにはどこへでもアロマ(香料、香り成分)がつき従うようになった。フランス消費者法典および欧州規則が定める定義によればアロマとは、「そのままの状態で消費されることを目的とせず、食品に対し香り、さらに/または味をつけ加えることによりその食品に変化を与えるためのもの」を指す。つまり食材の持つ味や香りを整え修正を施す加工材料であるわけだ。整えるばかりではなく、ときに増幅させ、ときに引き立たせ、強調する。では食材の性質を変えてしまうようなことも、すなわち自然な状態から逸脱させてしまうようなこともあるのだろうか? これについてはアロマの付加されていないヨーグルトを指して「ナチュール(自然)」と呼ぶことが暗に示しているように思える。アロマが付加されるやいなや食材は自然なもの、生のままのものではなくなり、人工の領分に移行してしまうかのようだ。とはいえ自然な風味を再現するためにデザインされている以上、人工的なものそれ自体は味において目立たないことが多い。したがって良いアロマとは、使われていること自体が忘れ去られているアロマであるということだ。控えめであるか否かにかかわらず、アロマはどこにでも使われている。「国内で生産されるイチゴの総量をもってしても、すべてのイチゴヨーグルトに香りづけするにはまだ足りません」、ジボダンのシニア・アロマティシャン、アルノー・ブスケはそう語る。イチゴヨーグルトに含まれるほんの数切れの果実片ではイチゴ味と分かるような風味を伝えることはできず、したがって消費者の期待を満たすためにはアロマの添加がまさに必要不可欠なものとなる。調香師という職業が皆ある程度の抽象化を許容できる素質を持っているのは、まさにこのような現実よりも本物らしい精巧な非現実を作りあげること(ハイパーリアリズム)こそがアロマティシャンの本懐だからなのだと、そうアルノー・ブスケは強調する。口に入った瞬間の感覚は、ラベルに記載されている約束と一致していなければならない。イチゴヨーグルトはアロマが使用される食品のなかでも最も多く消費されているものの一例であるが、どうだろう、ちゃんとイチゴの味がするではないか。事情を知らなければ、たががイチゴヨーグルトに複雑な解釈もスタイリングも装飾も何もないように見えるわけだが、実はこのような背景があったのである。そのイチゴヨーグルトも国によって味が異なる。消費者の寄せる期待やフルーツに対する味覚的イメージによって適用されるアロマの構成も変化するからだ。文化や食育のちがいから、例えばスペインでは「さっぱりとしていてフレッシュな」、フランスでは「さっぱりとしたなかにもフルーティーさのある」味となり、さらにドイツでは「ジャムのような」、イギリスでは「キャンディみたいな」味が好まれる傾向にあると、IFF(インターナショナル・フレイバー・アンド・フレグランス)シニア・アロマティシャンのジャン=フィリップ・フルニオールは語る。一方ロシアではより「フローラルな」イチゴ、すなわち「木イチゴ」の味が好まれるという。これらイチゴ味と同様のことがバニラについても言える。ただしこの場合目立った例外はフランスのみで、というのも他の国ではただ単にバニリンのもたらす風味で満足されるのに対し、フランスではそれに加え「キャラメル、フローラル、スパイシー、リキュール」といったニュアンスが求められるのだと、そうアルノー・ブスケは補足する。マダガスカルはバニラの実の主要生産国であるとともにかつてのフランスの植民地でもあった。そのため古くから天然のバニラに親しんできたフランス人の本物志向は強いというわけだ。アロマの調合作業はこうした文化的背景の織りこまれた消費者たちの期待と現実的な製品の着地点とをすり合わせて行われるものである。そのアロマの持つ特性を強調するためには、天然の抽出物に他の天然または合成の成分を加える必要がある。ここで重要となってくるのが、アロマティシャンとしての高い専門性だ。その専門性をもって彼らは風味の傾向に修正を加え、任意の味覚的特徴を増強してみせる。だがこれは本当に深く微細な知識を要することで、それがなければ食品の発する匂い分子を再現することはできないだろう。

アロマの起源

現代のアロマが誕生したのは1970年代から80年代に発達した化学成分の分析技術、特にガスクロマトグラフィー技術によるところが大きい。溶液中に存在するひとつひとつの分子を識別し、食品における匂い成分とアロマの構成をほぼ完全に特定することのできる技術である。付随して、「ヘッドスペース分析」と呼ばれる技術も登場した。こちらは空気中の揮発性成分をとらえて保存する技術である。この揮発性成分をクロマトグラフィーで分析することにより、記録された匂いを正確に再現することができるというわけだ。
通常、木に実をつける果実の匂いは収穫時における酵素作用によって変質が生じるわけだが、このセンサーを備えたガラス球の登場以降、収穫前の匂いを把握することが可能になった。具体的には熟した果汁たっぷりの桃の匂いを「撮影」し、この匂いをアロマの中心要素として再生産することができるようになったのだ。したがって先ほどのイチゴヨーグルトの例とは異なり、このヨーグルトには見た目用の果肉のかけらに加えて、まだ木についている段階の果実の香りを忠実に再現したアロマが付加されることになる。

自然であることとは何か 錯覚から再現へ

それで消費者たちが満足するかはどうかは定かではない。私たちは市場に流通している商品に慣れ親しむあまりそれが自然だとすっかり信じこんでしまっているが、必ずしもその商品が自然抽出物由来だとは限らない。アロマティシャンは合成成分を用いた果実の香りの再現にすぐれて熟練している。アロマの「自然らしさ」とは何より人工的なものであり、精緻な調合作業によってもたらされるものなのである。そしてそれにはふたつの要因が深く関わっている。ひとつは、天然抽出物による再現性が低いということ。これには天然原料が脆弱で、抽出方法によってはその原料が損なわれてしまうことが関係している。そしてもうひとつは、これら天然原料の収率の低さである。「必ずしも『沈黙の果実』というわけではありませんが(香水の世界では匂いを抽出できない花を『沈黙の花』と呼ぶ)、高価ゆえコストがかかります」とアルノー・ブスケ。「ですがそうした事情も、2000年代からじょじょに変わってきました」。消費者たちから寄せられる自然らしさへの要求と欧州における厳しい規制に対応するために抽出方法が改良され、天然成分の性能が向上したのである。ゆえに今日では自然であると「見せかける」のではなく「実際にそうである」こと、それを強調しあらゆる場所に明記することが求められている。ブラインドテストでは必ずしも天然抽出物が高い評価を受けるわけではないものの、「自然」と明記されたサンプルには一貫して好意的に受け止められ評価されていることが、心理学者レイチェル・S・ハーズの研究によって明らかにされている(「嗅覚への言語コンテクストの作用」『一般心理学ジャーナル』2003年号)。この業界には魔法の言葉めいたものはほとんどないが、「自然」だけは数少ない例外のひとつである。

「現実離れした味」

アロマのもうひとつの実用例として、「超自然的なもの」が炭酸飲料やキャンディーの分野に応用されている。したがってここで求められるのは味のリアリズムではなく、むしろエスカレーションであり、こう言ってよければ、ねつ造だ。これらの製品はニュートラルなベースから作られるため(つまりそれ自体は味を持っていない)、新鮮な感覚を提供することが約束されている。その実例として、レッドブルの前例のない成功を挙げることができるだろう。この飲料のトッティフルッティ味は「レッドブル味」として他の製品からも参照されている。リンゴのグラニースミス、パイナップル、バナナキャンディといった風味を合わせた味である。過剰であること、色々なものがプラスされていること、強いこと、そのような特徴こそがまさにここで重視されていることである。ジャン=ジャック・ボトーが指摘しているように(「意味と感覚について 知覚可能な領野におけるマーケティングとコミュニケーションの意味論」『セマン』誌、2007年号)、全般的「知覚過敏」の影響を受け、私たちの経験における強度の閾値は高まってきている。私たちの感覚はハイパーモダン化し誇張まみれとなった、そんな「肥大化した」« hypertrophié »(古典ギリシャ語の« trophein »に由来し「エサを与え太らせること」を意味する)世界と共鳴しているのである。

アロマの用語法

どんな些細な逸脱も見逃すまいと、ことこの分野においては合衆国より厳しい姿勢を見せるEUは、アロマの呼称を厳密に管理している。つまりあるアロマ製品が「天然」と称されるには、その製品を構成する成分が100%天然由来でなければならない。この場合、バイオ合成、蒸留、抽出など、天然由来の定義を崩さなければ取得方法は問われない。例えば「〇〇の天然アロマ」(「イチゴ」などが空欄に入る)と呼べるのは、そのアロマの少なくとも95%が〇〇そのものに由来する場合に限られる。残りの5%以下も天然由来である必要があるが、しかしそれらはあくまでも味を際立たせるために使用され(イチゴにフレッシュさを与えるなど)、最悪それがなくとも〇〇であると分かるようなそんな成分なのであると、そうアルノー・ブスケは解説する。力関係のなかで天然の持つ優位性は、次のような用語法のちがいのなかにも現れていると言えるかもしれない。すなわちアロマが人工のものである場合、「イチゴのアロマ」« arôme de fraise » ではなく「の(de)」を落とし、ただ「イチゴアロマ」« arôme fraise »と略されるのである。貴族由来の名字の前にもこの« de »がつくことを考えると、この高貴なる称号がイチゴから剥奪されてしまっているかのようだ。なお「〇〇の天然エキス」(バニラなどが空欄に入る)と呼ぶとき、それは抽出や蒸留によってただ食品源〇〇のみから得られるアロマのことを指す。アロマの改良が重ねられ、その万能性、正確さが向上したことにより、今度は反対に、加工されていない製品の味が評価を下げることになってしまった。アロマが添加されていない果物やジュースは、アロマが加えられ二重に香るものと比べると確かに物足りないものに感じられるかもしれない。アロマという増強剤を投与され続けた私たちの味覚は、熟す前に収穫されがちな味気ない果実を口に入れられたとたん、さながら幻想から覚めたかのようにげんなりとしてしまうのだ。豊かに熟した味の果物にアクセスできる消費者たちは、本当に幸運であるとしか言いようがない。そして販売経路上の制約からその恩恵を享受できない消費者たちにとっては、その失われた味を(再)発見するにはアロマに頼るしかないのである。口のなかで強くニュアンス豊かに香らせてくれるアロマは、食品の持つ味覚的、嗅覚的力の全体像をとらえる助けとなる。さらにはその力を強化することさえできるのだ。アロマの特質であるこのような再現性と現前性によって、現実は倍増し、二重写しのものとなる。そしてその性質によってアロマは、対象を増大させ、ときに変質させる力をますます高めることとなるのである。したがってアロマは二乗的な味を作り出すものであると言えよう。すなわち現実に元から宿る原型的な形を凝縮しつつ、その一部を歪め、誇張するのである。

ラージャー・ザン・ライフ

チェリーの香りは長いあいだ、ベンズアルデヒド(苦いアーモンドの香り的特徴を持つ)、そしてイオノンやフランビオノンを用いたスミレ・フランボワーズのノートからなるアコードによって表現されてきたと、そうジャン=フィリップ・フルニオールはその歴史を要約する。いく世代にもわたりフランスの消費者たちはチェリーという名前とこのアコードによる再現(高価で季節の短い実物とは異なり、このアコードはいつでも利用可能だった)を結びつけてきた。その結果、それが人工的なものであるということがすっかり忘れ去られてしまったのだった。自分たちが慣れきった香り的特徴に現実の果物が合致していないからといって、それがおかしな味であると感じられるほどまでに。チェリーはチェリーの味がしないというのである。同様に、アロマの添加によって味が強調された製品に慣れてしまった味覚にとっては、オレンジやイチゴ、トマトといった食品は、例えば飲料やヨーグルトやケチャップといった製品と比べ、あっさりとしすぎていて味気ないものと感じられる傾向にあるようだ。コンスタンス・クラッセンによる表現を借りれば、これは「命よりも大きな味」と呼ばれる現象である(デヴィッド・ハウズおよびアンソニー・サイノットとの共著『アロマ、匂いの文化史』ルートリッジ出版、1994年刊より)。味覚と嗅覚の距離は近く、高級香水にせよ機能性香水にせよ、アロマが香水業界に与える影響は顕著である。その証拠に(甘い、キャラメルの、フルーツの香りの)グルメ香水が流行し、美容コーナーではボディクリームが人気を博している。本来体につけるべきそれらの製品が、家庭内で誤って口に入れられてしまう事故が危惧されるほどのものであるということもまた注目に値するだろう。ここまで見てきたように、アロマというものが果実の持つ任意の現実的風味を誇張するものである以上、それは「超自然的なもの」に分類されると言ってよいだろう。自然はもはやひとつのパフォーマンスと化してしまったのである。しかしながら技術は日々進歩し、消費者からの需要は増加の一途をたどっている。この二重の要因によって、いつか本物の果物に肉薄できるかもしれない、すなわち本物の果実の味に到達できるかもしれないという考えは、一見理想主義的な目標であるかのように見えるが、しかし今日においてはこの偉業も、さほど実現困難ではなさそうなものとなりつつある。

味の強調された製品に慣れてしまった味覚にとっては、オレンジやイチゴ、トマトといった食品は、例えば飲料やヨーグルト、ケチャップといった製品と比べ、あっさりとしすぎていて味けないものと感じられる傾向にあるようだ。

 

翻訳:藤原寛明/監訳:中森友喜

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