「アリストテレスや他の哲学者たちが何と言おうとも、タバコに勝るものはない。タバコこそが紳士たるものの情熱であり、タバコなしで生きている男など生きている価値もない」。これはモリエールが『ドン・ジュアン、あるいは石像の宴』の第一幕で、スガナレルに言わせた台詞である。そのなかでスガナレルはタバコと放蕩とを関連づけながら語っているわけなのだが、この放蕩というのはすなわち、今っぽい表現に言い換えるとすれば「性依存」ということになるだろうか。主役のドン・ジュアンが鋭い嗅覚の持ち主であるということも思い出しておこう。彼は匂いで女性の存在を探知するのである。「何だか女の匂いがするようだ」、同作から影響を受けたモーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』における有名な台詞である。香りとタバコの類似性を示唆するために書かれた本稿の、序章となるべきエピソードではないか。
タバコは点火されると喫煙者の周囲にもくもくとした煙のカーテンを作り出す。そして燃え尽きた後もなかなか消えない匂いの痕跡を残す。この匂いによって、若き喫煙者たちはタバコを吸ったことが親にばれてしまうのだ。文学においても、ミシェル・トゥルニエの主人公のフライデー(『フライデー、あるいは太平洋の冥界』ガリマール社、1967年刊より)は、大切に備蓄されたタバコをロビンソンに内緒でこっそりと吸う際、その露骨なまでの匂いから自らの行いが露見してしまわぬように細心の注意をはらわねばならなかった。「野外で吸うとなると、フライデーにとっての楽しみはたちまちのうちに台なしになってしまうのだった。かといって屋内で吸えば主人にばれてしまうこと必至であるということが、彼にはよく分かっていた。[...]フライデーにとって喫煙という行為の意味はただ周囲に渦巻き立ちこめる煙のなかにのみあったのだ。したがってそこに少しでも風や空気の流れがあった場合には、もう本当に、取り返しのつかないほど興がそがれてしまうのだった」★。
まさにその匂いによって周囲の不興を買うこともあるだろう。まるでそこだけ空間が隔離されたかのように喫煙者の周りからは人がいなくなる。かのセルジュ・ゲンズブールもこう歌っている。「俺の周りを空っぽにしてくれる、それがシガリロ(細巻きのタバコ)の便利なところさ」(「レ・シガリロ」より)。したがってタバコとはその匂いを、香りをその内部に包みこんでいるものであると言えるだろう。香り(le parfum)の語源がラテン語の«perfumum»すなわち「煙によって、煙を通して」という意味の言葉であることを考えると、このふたつはまさに字義通りの関係を取り結んでいると言えよう。そのタバコの煙と匂いは密閉空間において衣服や指、髪の毛にまでしみこみこびりつく。しかしそのタバコの残り香を覆い隠すものとして、ときに香水が役立てられることもある。ルームスプレーやアロマキャンドルで部屋の匂いをごまかし、さらにオードトワレを体に吹きつけタバコの残り香を隠蔽しようとするのである。 それとは真逆のケースとして、タバコの煙よりも香水のほうがひんしゅくを買うということも決して珍しくはない。1980年代におけるニューヨークの高級レストランのエントランスでこんな看板が掲げられていたのを覚えておられる方もいらっしゃるのではないか。「ノー・スモーキング、ノー『ポワゾン』」、あるいはその別バージョンとして「ノー・スモーキング、ノー『ジョルジオ』」。公共の場での喫煙禁止にくわえ、いつの日か共用スペースで香水をつけることさえ禁止される日が来るのではないかと、そう思わせるような文句だ(『Nez#2』収録の記事「われ匂う、ゆえにわれあり」も参照されたい)。今日ではタバコの匂いをさせている人は怪しげでいかがわしい人物であると思われてしまう。今は大人になっている人々が1980年代に子どもだったころなどは、自動車での長い道中のさなか(後部座席から、シートベルトをすることもなしに)窓を閉めきった車内で両親たちがかわるがわる、ひっきりなしにタバコを吸い続けている光景を見て育ったものだ。その情景のなかに立ちこめていた匂いを、かつては親しみのあったはずのその匂いを、今大人になったその子どもたちが公然と非難しているのである。さらに前の時代では飛行機や列車内、バー、クラブなども当然のようにどこでも喫煙可能であった。とはいえ喫煙禁止にされたからといって、すぐさま良い匂いにその場が明け渡されるなどということにはならなかった、ということもつけ加えておかなければなるまい。汗の匂いやその他の体臭が、新たなる悪臭の主として取って代わるようになったからだ。最近のパッケージには「タバコは人を殺す」という文句が書かれているが、そのように死の原因となるものとしてだけではなく、今やタバコは匂うもの、したがってその匂いや煙によって、人を不快にさせるものとしても認識されている。それと期を同じくして、タバコという物のイメージそのものがだんだん表象されなくなっていった。あたかもポルノのようにわいせつなものであるかのごとく、テレビの画面上からも姿を消した。さらに映画技法においても、タバコは香水と同じ性質を持つものとして解釈されるようになった。つまり、どちらも実体を持たない、不可視のものであると。
最近のパッケージには「タバコは人を殺す」という文句が書かれているが、そのように死の原因となるものとしてだけではなく、今やタバコは匂うもの、したがってその匂いや煙によって、人を不快にさせるものとしても認識されている。
はかないものの快楽
タバコは燃焼しているあいだだけ存在できるわけだが、当然それも長続きするはずもなく、そのような一過性こそが長いあいだ香水とともに批判される理由となっていた。タバコとは、「はかなき存在の最たるものである。煙が体内に入ってくるやいなや、出ていき、そして消えてしまう」★、そう『美徳としての悪徳』(アルバン・ミシェル社、2000年刊)のなかに記したのはジル・ヴェルランだ。フロベールの書簡からも引用してみよう。するとどうやら彼は、タバコおよび喫煙という行為につきまとう消えやすさという性質そのものに興味を寄せているらしいということが立ちどころに分かってくる。「ああ!パイプのない人生など何と不毛なものか!葉巻のない人生が何と色あせて見えることか!噛みタバコのない人生の耐えがたきことときたら!愚かものどもはいつだって決まってこんな風に言うんだ。『ばかげた喜びだ!何もかも煙になって消えちまうじゃないか!』と。まるで、煙になって消えていかない、それより美しいものがあるかのような言い草ではないか。なら栄光はどうだ?愛はどうだ、夢はどうだ?それらはどこへ行ったのだ?それらもみな、煙になって消えていってしまったのではないかね?わが友よ」★。同じように香水の香りもまた長続きしないものである。すぐに蒸発してしまい、それをいつまでも肌の上に保管しておきたいという人々の願いをことごとく打ち砕く。「それこそがこの贅沢品の特徴だ。つまりあらゆる品のなかでも最も無益なものであるということである」と、古代ローマの博物学者プリニウスも『博物誌』において早くもそう断じていた。「香水はその香りを放つが早いか、身につけた瞬間からもう死に始めている」。このような、はかない快楽という共通項がタバコと香水とを結びつけていると言えようが、おそらくそうしたすぐに消えるはかなさこそが、そのたびごとに生じる喪失や空白を刺激し、さらなる渇望を呼び起こすのではないだろうか。
ところでタバコに明らかな中毒性・依存性が認められるのだとしたら、香水に対してもこの言葉を当てはめることは果たして可能なのだろうか(この問題に関しては、サラ・ブアースによる記事も参照されたい)。広告やマーケティングにおいて大胆な仮説が見られることは多いものの、香水やある匂いに依存性があるという考えに関しては、あくまでもフィクションの域を出るものではないというのが穏当なところであろう。例によって文学から見ていこう。パーシー・ケンプの小説『ムスク』(アルバン・ミシェル社、2000年刊)の主人公はまさにに香水への依存に取り憑かれてしまっている。彼は自らの偏愛するビンテージ香水のストックが尽きてしまう日が来ることを恐れて、パニックに陥ってしまっている。そのお気に入りに香水が毒性規制を受けた結果、本来のものとはちがう香りになってしまったのだ。「エメ氏は香水が残り少ないことを確認し、恐怖に駆られた。彼は今69歳で、82歳ごろまで生きると思われた。その一方で『ムスク』はもう4リットル弱しかなく、3年とたたぬうちに使いきってしまうと思われた。導き出される結論は自明であった。消費量を4分の1に節約し、何としてでも『ムスク』の使用量を減らし可能な限り長持ちさせるしかない」。ここで描かれていることは、ロビンソンがまだフライデーに使いこまれる前のタバコの備蓄量を目にした際の態度を否応なく思い出させる。「故ファン・デイセルの陶器製パイプを使い始めて、その楽しみに気づいてからまだほとんどたってはないというのに、無慈悲にも樽のなかにしまってあるタバコの残量は残りわずかときたものだ。ゆえにこれを出来得る限り長持ちさせるよう工夫せねばならぬだろう。後に満足できなくなって苦しむような習慣なら、身につけぬほうがましなのかもしれない」★。
このような文脈からも明らかにそうと分かる「禁断症状(sevrage)」が認められるがゆえに、タバコは精神分析においては(この«sevrage»という語のもともとの語義が「離乳」であることがすでにそう暗示しているように)退行的性向と結びつけられることが多い。これについてはフロイト自身も何度か言及しており、『フロイトとタバコ、喫煙者の精神分析』(ファイヤール社、叢書「プリュリエル」、2011年刊)のなかでフィリップ・グランベールも記しているように、フロイトはこの性向を、「母親の乳房、母乳、おしゃぶり、などといった、私たち元赤ん坊がリビドーが発達する過程において泣く泣く失ってきたすべてのものと関連づけながら論じ、その考察は後世まで影響を与えるものとしてじゅうぶんすぎる力を持っていた」★。同じように匂いに関しても、心の支えとなる、慰めとなるようなお守りとしての匂いがあり、私たちはそれに鼻をうずめて安堵したいという思いに駆られる。「仕事がないときは『ミツコ』を手の甲につけてその香りをくんくんとかいでいます。そうすることが好きなんです」とティエリー・ワッサーは2015年2月の『パリ・マッチ』のインタビューで語っている。「私たち皆がそれぞれの薬を必要としているのです。一般向けには閉店していたゲランの店舗に、どうしても『シャリマー』じゃなきゃだめなの、と訴える老婦人をなかへ入れてあげたときのことを思い出します」というエピソードをワッサーは紹介する。「タバコ中毒者なら、どんなタバコでもニコチンさえ含まれていればとりあえずはひと心地つけます。ですが香水はそうはいきません。香水への依存は代えがきかないのです」。その通りだ。香りにおいて嗅覚と記憶が求めているのは厳密なる正確さなのだから。
香りへの欲求が鼻によって満たされるのだとすれば、タバコへの渇きは口によって癒される。煙によって「満腹感が与えられる」のである(この表現に関しては併録のインタビューも参照されたい)。タバコを「喫む」とも言うが、まさに上手い表現だ。タバコをふかすこと(bouffée)と食事をすること(bouffe)ということとは、このように実際1文字のちがいでしかない。「それゆえ、タバコをやめると体重が増えるのかもしれない」と、非伝統的な味覚体験に関心を寄せる関口涼子は『亡霊を食すること』(アルゴル社、2012年刊)のなかにそう記している。「さまざまな科学的説明がそれを裏づけているように思える。実際、喫煙者たちは本当に煙を食べているのだろう。だからこそ彼らは喫煙をやめるとき、煙の代わりとなるものを固形の食べもののなかに見出そうとするのである」。
綿菓子とレモンタルト
香りが重要な役割を果たす新たな吸引体験として、電子タバコを挙げたいと思う。フランス国内では機会喫煙者を含めのべ1450万人がタバコを吸っていると見られているが、これに加え240万人が電子タバコを利用者しているということが2018年のフランス公衆衛生庁による統計から明らかになっている。アロマを含んだ蒸気を吸うことによりあたかも香りが視覚化したかのようなそんな体験を特徴とする電子タバコはそれゆえ、タバコと香水の中間に位置するものと言えるかもしれない。しかし類似性はせいぜいその程度のものだ。「あくまで主観ですが、タバコというよりはガストロノミー(美食)に近いものだと考えております」、そう述べるのは国内のe-リキッド開発会社において電子タバコメーカー各社のためにフレーバー開発を務める、ジル・ナルディだ。このe-リキッドなる液体は「プロピレングリコールと植物性グリセリン(このふたつはそれ自体は無臭である)、各種アロマ、そして有効成分として、それなりの量のニコチン」という4つの要素からなっている旨をナルディは解説する。
ニコチンの含有量を選択できるということも禁煙を目指す多くの喫煙者を引きつけている要因のひとつであろう。そうした人々は「始めこそタバコやメンソールのアロマを再現したe-リキッドを好むものの、時がたつにつれ味の好みが次第に変わっていきます。タバコを吸わなくなったことで味覚が再び鋭敏になったのです」とジル・ナルディは続ける。「そうした流れから電子タバコ利用者はやがてフルーティーなアロマを探求するようになり(ベリー系を始めとした果樹園で栽培される果物や、南国系のフルーツのアロマなどが挙げられます)、そしてついには綿菓子や、メレンゲを乗せたレモンタルトといったようなより凝った味を好むようになるのです」。 こうしたフレーバーが若者たちを引きつけ、それが非難されるという例もある。アメリカではその問題で槍玉に挙げられた電子タバコメーカーのジュール(Juul)が、販売するアロマリキッドのうち数種類を店舗から引きあげるという決断にせまられた。同社は以後購入希望者の年齢確認をしたうえでオンラインでのみ販売するとした。このジュールの電子タバコはシンプルかつ小型なデザインで、それがアメリカのティーネイジャーに受けている。もし小説の世界にもこのような小型のデバイスがあったのなら、きっとフライデーもロビンソンが目と鼻の先に近くにいたとしても難なく「ジュールをやる」ことができただろう。ティーネイジャーを子に持つ親たちはいかに鼻を警戒させていたとしても、このようなア・プリオリに無害なものだと刷りこまれている香りの痕跡から未成年に禁止されている喫煙という行いを突き止めるのはいささか困難なのではないだろうか。
キャンディの匂いをさせた風変わりな煙がますます公共の場を侵略していく一方で、マルボロ、ジタン、キャメルといったクラシックなタバコの煙がそこから追い出される形となっている。「エンジェル」以降増加したグルマン系フレグランスの後を継ぐような形で、今ではこうした電子タバコが環境内を甘ったるい香りで満たす新たなる媒体となっているのである。ひょっとしたら、もしやこれこそが依存性物質の最終形なのではあるまいか? 禁煙のための手段であれ香水であれ、すべてが私たちを砂糖に関連する甘い香りのほうへと誘導しているではないか? 医師たちが今日地上に存在する最も危険な毒として砂糖を挙げているというのも、決して単なる偶然ではないだろう。
原注:★記号のついている他作品からの抜粋に関しては、ジャック・バロッツィ著『タバコの味』(メルキュール・ド・フランス社、2010年刊)より引用した。
「アロマとしてのシガー、その幅広いパレット」
『シガー小辞典』(2019年10月再版)の著者であり弊誌執筆陣のひとりであるギョーム・テッソンが、タバコの仲間として最も大きな存在感を持つ「シガー・葉巻き」についての疑問に答えてくれた。
シガーにもやはりタバコと同じような依存症や中毒性は認められるのでしょうか?
ニコチンへの中毒なら考えられますが、依存症となると、やはり極めてまれなのではないでしょうか。というのもシガーはタバコのなかでは例外的といいますか、夜にひとつの儀式のようにしてひっそりと楽しむものだからです。決して時を選ばずひっきりなしに吸うようなものではありません。例えばですが、「ダブル・コロナ」を味わうにはたっぷり1時間半は必要でしょう。しかもその間じゅうぶんな注意をはらわなければ火は消えてしまいます。
公共の場でのシガーの匂いはどのように位置づけられているのでしょうか?
多くの人が集まる場所での喫煙が禁止されて以来、タバコを吸う人々は屋外のテラスに殺到するようになりました。ですがここでもシガーの匂いはタブー扱いされ、はみ出しものにされるという憂き目を見たのでした。シガーの愛好家たちは数ヶ月のあいだ怒りを溜めこんだ後、しかし落ち着いてきちんと対応策を見つけ、その結果喫煙室を備えた店へと向かうようになったのです。
そのシガーによってどのような嗅覚体験ができるのかをお聞かせ願えますか。
その体験は何よりもまず、匂いというよりかはアロマに関するものであると強調しておきましょう。シガーにおいては煙は副次的なものにすぎず、せいぜいのところ口のなかに入ってきたときにしか関係してきません。そのとき、口のなかの煙を「噛む」とそう私たちは表現します。ワインに酸素を含ませるときのような感じで、決してひと息に気管へと「飲み干し」てしまうことなどないように、口のなかにとどめ、頬から頬へ転がした後にゆっくりと吐き出すことで、より詳細な情報が得られるのです。
周りにいる人たちにとってはまた別の話になってくるでしょう。安価な乾燥シガーやシガリロを吸っている人の後ろを歩くのは耐えがたいものです。質の良いものか悪いものであるかは匂いで判断することができます。上質なシガーが燃えている場所では確かに強い匂いがしますが、何か特別なことがそこで起こっているのだということが分かります。温かい煙からは木の香りや、動物的なニュアンスも香ってきます。植物、スパイス、グルマン、リキュール、そして今挙げたウッディ、アニマルと、シガーに秘められたアロマのパレットには実に幅広いものがあります。その匂いは、魅了されるか嫌悪を抱くかではっきりとふたつに分かれることでしょう。
シガーは気分が悪くなると言われることが多いと思うのですが、やはりその匂いと関係しているのでしょうか?
シガーの香りは強く、人を酔わせるような、目まいを起こさせるようなところがあるのは確かです。ひと筋の煙とすれちがうくらいならまだ耐えられるでしょう。問題なのは複数の喫煙者がそこにいる場合で、そうなるとその場の空気は、ほとんど呼吸困難なものとなります。また、口のなかにある煙と、シガーの先から出ていく煙とを区別する必要もあるでしょう。火を通過していく煙は匂いがきつく、それを吸った人は思わずくしゃみをしてしまうかもしれません。一方でその道の専門家にとっては、その煙が重要な情報源となることもあります。例えば口から出た煙にアンモニア臭が認められるとしたら、その体は若くない、といったように。喫煙者にとって気分が悪くなる原因は匂いというよりかはむしろ、唾液を介して体内へと入っていくニコチンによるものでしょう。シガーをたっぷりと、それも急激に吸うとニコチンショックを引き起こすこともあります。これは濃いエスプレッソを立て続けに3杯飲むようなものです。今シガーをエスプレッソに例えましたが、食事に例えられるメタファーにも豊富なものがあります。例えばアロマが豊富でコクのあるシガーをじゅうぶん堪能したとき、「もう満腹だ」という言いかたをします。私の友人たちは晴れた日に外へ出て、サンドイッチとシガーを組み合わせたランチメニューを楽しんでいます。このシガーという喫煙体験は私たちに活力を与え元気にしてくれるのです。
翻訳:藤原寛明