カロリーヌ・シャンピオンは美学・哲学の研究者であるとともにコンサルタント業も務める。専門としているのは味覚とその関連分野だ。主な著書に『オードブル 芸術と料理をめぐって』(ムニュ・フルタン、2010年)、そして共著として『ジボダン アロマと香りの冒険』(ラ・マルティニエール、2016年)などがある。「味覚の探究者」として知られ、自身の専門分野はもちろんのこと専門外のことについても果敢に論じ、その姿勢が結果的に自身の領域を拡張させることにもつながっている。現在、同氏は腐敗と発酵に関する著作を執筆中である。
まずは香水と料理の比較からお聞きしたいと思います。ふたつの共通点としてはどのようなものが挙げられるのでしょうか?
ここは少し言葉を変えて、味覚と嗅覚の比較、としてみましょう。ある意味においては、このふたつはどちらもネガティブな評価を受けてきました。哲学からは「生活じみた感覚」と軽んじられ、「理性的な感覚」である視覚に比して軽視されてきた一方で、しかし別の文脈においてはこの味覚と嗅覚というカップルはポジティブな評価を獲得してもいるのです。そのふたつが過去をめぐる記憶力や時間との関係において特別な結びつきを持ち、過去のなかに埋もれたひとつの世界を丸ごと浮上させることのできる力を有しているからです。クリエーションということに関しては、味覚と嗅覚はそれぞれ別個の領域を生み出したわけですが、そのどちらも「生きること」という同じ芸術から派生したものであるゆえ、両者の関係はパラレルなものだと言えるでしょう。 香水と比較するのであれば、料理よりも、デザートやケーキなどのパティスリーのほうが比較しやすいように思えます。と申しますのも、そもそも料理とは人が生きていくうえで不可欠なものであり、絶対に存在しなければならない、そんな確固たる存在理由のもとに成り立っているものだからです。人類学的に解釈するとすれば、料理は、食べなければならないという差し迫った欲求をより抽象的な欲望へと昇華させたものと見ることができますが、それに対し香水やパティスリーには最初から欲望だけがあるのです。デザートが空腹を満たしてくれるかどうかを気にする人はいないでしょう。そんな風にパティスリーはただ純粋に美食の領域にだけ属するものであるゆえに、料理よりも自由度が高いものとなっています。できあがった品が人間の手によって変質を被ったひとつの人工物であるということは、パティスリーにおいてはもうこれでもかというほどアピールされている点でしょう。パティスリーはそれが何でできているか(卵、砂糖、牛乳など)ということは必ずしも認知される必要はなく、それもまた料理とは異なる点と言えると思います。
幾何学的デザインのケーキが近年流行っておりますが、そのようなものは自然界には明らかに存在しないわけですから、それが文化的営為であるということがそのケーキを通して明示されているというわけです。そして、これらと同じことが香水にも言えます。世界に存在する既存の匂いを再現する必要はどこにもありませんし、むしろ真に偉大な香水とは、それまで存在したことのなかったような斬新な香りとそれにまつわる物語を生み出すことなのではないでしょうか。
『ジボダン アロマと香りの冒険』では分子ガストロノミーとグルメ香水を並列させながら論じられています。私たちの誰もが知っている、2020年以来のあの身体的距離の経験を経て、何か変化したことはありますか?
まずはグルメ香水についてですが、私が逆説的だと思うのは、グルメ香水が食べものの香りだけで満たされ充足できるというそんな超越的存在に人間を作り変えること、すなわち身体の理想化を目指すものでありながら、その超越性のあまり人間を非物質的でうつろな非存在にしかねないということです。このグルメ香水における身体の非物質化、ということに対しシンメトリーな関係をなすものとして私は分子ガストロノミーを考えています。後者においては食物が分子として気化され、重さも実体性も持たないひとつの香りに変じてしまいます。ところが今日では、少なくとも料理のほうは状況が一変しました。分子ガストロノミーはすっかり影をひそめ、もはや誰もそのトレンドの優位性を主張しなくなりました。それまでは、シェフたちは演出家も兼ねていました。確かにスペクタクル性にあふれていましたが、どこか現実のものではないような空虚な経験。インスタグラムありきで考案され、視覚的美しさを極端に重視した料理の数々。つまりそのような潮流が、より実体的で手で触れることのできる経験を求める欲求に取って代わられたのです。Covid-19の蔓延によって食卓における身体というテーマが再定義されるとともに、そのテーマ自体の重要性が改めて認識されました。レストランにとっては、人々がともに集まり時を共有する場としてこの状況を活かすチャンスがありました。最も大きな転換を図ったのはコペンハーゲンのノーマでしょう。実験的料理を提供する世界的にも有名な高級レストランとして近寄りがたさすらあったノーマは、誰もが気軽に立ち寄れることをコンセプトとしたワインバーとバーガーショップへとその姿を変えました(ただしこれはある種のポップアップとして企画されたもので、あくまで一時的なものにとどまった)。食べる物を提供すること、提供された側はそれを食べること、そのような本来のありかたに真摯に取り組むという原点回帰がここに認められましょう。このような変化は今回の危機によって顕在化したわけですが、しかしその予兆はそれより以前から見られていた、ということは強調しておくべきでしょう。例えばレストランのメニュー表記と言えばまるで暗号文であるかのような謎めいた用語と華美な修飾語にごてごてと飾りつけられている印象を覚えたものですが、少し前からはだいぶすっきりと簡素化されるようになり、「サバ/ビーツ/…/…」というように、使用されている素材の名前だけを記した表記が主流になっています。このように言葉の面においても、料理はより洗練され、素材そのものを引き立てる方向へと変化していったのです。
料理において「美しさ」と「美味しさ」はどちらが優先されるべきなのでしょうか?
ここ数年特に顕著に感じられるのは、料理人が自身をアーティストとして自認するようになったということです。私たちの文化においては、大文字で表記される主要な「芸術」というものは視覚芸術によって独占されてきたという歴史的背景があるわけですが、自らもその序列へと加わるべく、料理人たちは視覚芸術家へとその姿を変えたのです。そのような傾向は1970年代のヌーベル・キュイジーヌの時代からすでに始まっており、今日におけるこの現象はこのプロセスの最終形と呼ぶべきものでしょう。料理を視覚芸術として表現するための前提条件として意識されていたのはまず、レストランというシステムそのものを再構築し、客席よりも厨房に対しより大きな力を集中させることでした。とはいえそれはあくまでもヌーベル・キュイジーヌの必要条件にすぎず、十分条件ではなかったわけですが。肉でも魚でも、ヌーベル・キュイジーヌ登場以前は大皿に丸ごと乗せて卓上に提供されるのが伝統的なスタイルでした。縦横に大きく立体的な様は、建築的な美とも比較できたかもしれません。こうした大皿料理はサービススタッフによって取り分けられたうえでゲストに提供されるのが常でしたが、これに対し新たな世代のシェフたちはただ1人ぶんのポーションの料理を厨房内で控えめな大きさの皿の上に自ら盛りつけ、これがひと皿ずつクロッシュ(温菜の保温を主な目的とした釣鐘型のふた、カバー)で覆われたうえで客席まで運ばれていったのでした。かくして料理の皿は「霊感を受けたシェフ」が自らの内面を表現するためのキャンバスになったのでした。皿の白さもまさに画布の白さと対応していました。写真の登場によって絵画の存在感がかすんでしまったのとまったく同じように、いつからか料理においてもフォトジェニックであることが何よりも優先されるべき至上命題となっていきました。それと同時に台頭し始めたのが、皿の真上から俯瞰的に料理を見下ろし、その視界を平面的に見据えるという新たな視点です。このような物の見方は、後に「フードポルノ」と呼ばれることになる(料理を高度に魅力的な対象として認識する立場からそれを写真に収め、それをソーシャル・ネットワーク上に投稿する)ムーブメントにおいてもはやおなじみのアングルと言ってよいでしょう。このような傾向から、料理の写真映えや皿の上に表現された美しさが料理本来の目的であるはずの味や、誰かによって食べられること、といったことよりも優先される嫌いが出てきたのは確かです。ですがご存知のように、食卓において視覚というものは、食べるという行為の前段にすぎません。そこへ登場するのが、まさに匂いなのです。見た目と味とのあいだをつなぐ橋渡しとなり、料理が口のなかへと運ばれるよう誘うもの、そのような極めて重要な役割を担っているのがこの匂いなのです。そのような匂いを感じることで、私たちは実体のない空虚な「美」から、ちゃんとした「食欲を感じる」身体へと戻って来れるのではないでしょうか。
「見た目と味とのあいだをつなぐ橋渡しとなり、料理が口のなかへと運ばれるよう誘うもの、そのような極めて重要な役割を担っているのがこの匂いなのです」
なるほど。それでは偉大なシェフたちのレストランにおける匂いというのはどのようなものなのでしょうか? そしてそれはどのような役割を担っているのでしょうか?
もちろん厨房内はいつだってさまざまな匂いで満ちていますが、ゲストのテーブルでの演出として匂いがどの程度まで計算されているかはレストランによって異なります。最も卓越した例のひとつとして、アンヌ=ソフィー・ピックが自身のレストラン「ラダム・ド・ピック」で2012年から2014年にかけて取り組んだ実験的試みを挙げてみることにしましょう。この女性シェフはワインでは嗅覚が重視されているのに対し料理においてはそうとは言えないことを常々嘆いていました。そこで彼女は食事の演出として、あえてこの匂いを中心に据えてみようと思い立ったのでした。その期間中、彼女は香料会社の高砂と提携し、料理と香水のペアリングを実施しました。まず彼女が提案したのはメニュー表に香水を香らせることでした。メニューがゲストに手渡され、その香りがこれから提供される料理をゲストに対し予告する役割を果たします。すべての料理にクロッシュをかけて提供されることが徹底され、嗅覚的効果は増幅されました。ですがこの試みは長くは続きませんでした。シェフ自身の言葉を借りるとすれば、匂いは料理そのものと比べるとバーチャルな性質が強すぎたのです。料理が有形のものであることを考えると、人が無形の匂いだけで満たされることはないということはよく理解できます。
美学的な観点から見た場合、味覚と嗅覚との類似点や相違点はどのようなものがあるのでしょうか?
よく誤解されがちなのですが、美学(esthétique)は必ずしも視覚的な美しさだけを対象とするものではありません。(ギリシャ語の« aisthētikós »「知覚すること、感じること」に由来するという)その語源からも明らかなように、美学は感じること、感じられること全般に関わる学問なのです。したがってその対義語は「麻酔(anésthésie)」(ギリシア語の« anaisthēsía »に由来。すなわち「感覚を遮断するもの」)となるわけです! ちょうど音楽がそうであるように、料理と香水は私が「夜の芸術」と呼んでいるものに当てはまります。つまり、それは目を閉じて鑑賞すべきものである、ということです。料理の見た目がそれを味わうための前提条件たり得ることは確かだとしても、当然ながら口が物を見ることはできませんし、味覚が感じ取る味という瞬間はあくまでも味覚それ自体のなかに内在しています。香水に関しても同様で、揮発性の香りが瓶のなかに閉じこめられ、香水それ自体の姿を目にすることは叶いません。「いったい誰が匂いを指差すことができるというのか?」と、そう自問したのは詩人のリルケでした。このように、味覚も嗅覚も移ろいやすく、一瞬のうちに消え去ってしまう感覚です。しかしだからこそ、それらは時間と記憶とのあいだに特別な関係を築くことができているのです。例えばプルーストの小説においては、「匂いと味は長い時間の経過の後でも残る」ものとして描かれています。これはまさにこのふたつが失われた記憶=時間を呼び覚ます力を有しているからで、これらは同時にこの「記憶という壮大な建造物」の土台を支える役割も担っています。つまり料理も香水も、無意識的記憶の芸術、とでも呼ぶべきものに当てはまるというわけです。この芸術をプルーストは音楽のなかにも見ていたということを、「ヴァントゥイユの小さな旋律」のエピソードを通して読み取ることができます。以上のことから、芸術とは必ずしも鑑賞者の目の前に提示されるものとは限らない、ということがお分かりいただけたかと思います。香水に関しては、ただボトルによってかろうじて空間的枠組みが与えられているだけで、もちろんそれを写真に撮ることはできますが、その視覚的イメージが瓶のなかに閉じこめられた香りの本質を理解するための指標としてはあまりに脆弱だということは、もう言うまでもありませんよね。それに対し料理のほうは少し異なっていて、写真映えや絵画的な美しさが強調されることによって「美的芸術」としての側面が前面に押し出され、まるで画布に描かれたかのような料理を目にした視覚が独立して、味覚を凌駕するということが起こります。
料理をめぐる美的価値観がこうして変化していくなかで、料理批評家はどのような役割を果たすのでしょうか?
レストランと美術館はどちらもフランス革命期に誕生しました。いずれも美的探求、あるいは芸術の名に値する作品を味わい鑑賞するための場と言えますが、一方でそうした場には知識や経験を体系化する専門家の存在が不可欠でした。こうして芸術批評家と料理批評家もまた期を同じくして誕生することになったのです。対象となる分野が料理であれ美術であれ、当時の批評には文学的な要素がありました。今で言うと香水批評がその流れを継承していますよね? 現代の料理批評家は料理を食べ評価することよりも、自身の店を開いたりするなど、プロデュースのほうに力を入れている嫌いがあるようにも思えます。またロックダウンのあいだには多くの批評家たちが自身の料理レシピをソーシャルメディア上に公開していたということも記憶に新しい。ところで私はこう思うのですが、料理に関しては誰もが容易にその味や価値を判断・評価できるように思うのですが、それが香水となれば話はちがってくるのではないでしょうか。なぜかって、料理だったらプロでも素人でも料理自体は誰でもできるでしょう。しかし調香師の仕事には誰でもアクセスできるわけではなく、高い専門性が求められます。この点、香水の世界はワインのそれと似ていると言えるでしょう。それらを評価するにはその道に通じた専門家集団に属し、特殊で体系化された専門用語を使いこなさなければならないと、そう思わせるような雰囲気を醸し出しています。それに香水もワインも、基本的にはどちらも贅沢品として位置づけられているのに対し、料理のほうは家庭で日常的に作られるものから星つきレストランにいたるまで、非常に幅広い現実を内包しています。
現在進められている研究は「腐敗」に関するものとうかがいました。このテーマはアルコールを原料として作られている香水とは一見すると対極に位置するものであるように思えます。実際のところ、香水にも腐敗に関係する要素はあるのでしょうか?
ご指摘の通り、確かに香水は私の主題である「腐敗」や発酵とは真っ向から対立し合うものであるように思えます。ここでそもそもの前提に立ち返ってみたいのですが、「香りをつける(parfumer)」とは、「浄化すること、清めること(purifier)」を含意しています。語源的には« pur »はギリシャ語の« pyr »に由来し(そしてそこからラテン語を経由して各ロマンス諸語に派生することになる)、その意味するところは「火」となります。一方「香水、香り(parfum)」の語源はラテン語の« perfumum »すなわち「煙を通して」から来ており、この言葉は宗教的儀式で焚かれる香や、その他の燃やして使われる芳香物質の存在を含意しています。時代によって、この火と香りを用いた浄化の儀式は、神聖なもの、道徳的なもの、あるいは衛生的なものと、その様相を変えていくこととなります。例えば古代エジプトでは、香水は遺体の防腐処理、すなわち「エンバーミング(embaumer)」にも役立てられていました。本来の、つまりより一般的な用法においてはただシンプルに「心地よい香りを広げること」を意味するこの言葉ですが、ここで言う「死者の体が腐敗するのを防ぐ処置を施すこと」というもうひとつの意味に関しても今日においては幅広く認知されていますよね。
象徴的に解釈するとすれば、先ほど挙げた語源からも分かるように香水は火と清浄に結びついています。そして火に対置されるものとして水があるとすれば、発酵はまさしくその水と結びついているのです。これは水の持つ両義性に目を向けると理解しやすいでしょう。つまり水は確かに生命の源でもありますが、ひとたび流れが止まり、よどみ、滞留すれば、そこに腐敗が生じます。 とはいえ、香水と発酵との関係はすべてが対立として語られるわけではありません。現在では複数の研究において発酵を天然原料の抽出プロセスとして組みこむ可能性が検討されています。収穫後の植物をエッセンスの抽出前に発酵させることは、本来であればよほどの例外がない限り避けられるべきことですが、近くこの研究が実を結ぶ日が来れば、自然界に存在するあらゆる有機物にとって腐敗は逃れられない運命であるという点において、その抽出プロセスから最終的に得られる成分はこれ以上のものは考えられないほど、完全に自然なものであると言えるはずです。しかし厳密に言えばただただ腐敗させるにまかせておくわけではなくそこにはやはり人の手が入るわけですから、そのプロセスは発酵という形を取ることになります。そしてその結果獲得される成分も、文化的な性質を帯びることになるわけです。したがってこの発酵を利用した抽出方法による成果物は、この上なく自然であると同時に、高度に文化的であるというふたつの性質を合わせ持つことになります。例えて言うなら、自然の力を使って(とはいえこの場合、基礎的な物理化学を応用して、という意味となりますが)川の流れをせき止めるのではなく、その流れを別の方向へと変えてあげるようなものでしょうか。
料理の世界においてもこの現象はまったく同じように作用します。ここでも語源を手がかりに話を進めてみましょう。「調理する(cuisiner)」という語は、腐敗を防ぐ「加熱(cuisson)」に由来します。そうです、やはりここでも火が関わってくるのです! 調理プロセスとしての発酵は、腐敗に付随するものであるとともに、その腐敗の方向性を導き、管理するものとしてとらえることができます。その結果得られる産物はもはや自然というよりかは「超文化的なもの(superculture)」と呼ぶべきでしょう。この用語は自然と文化という、人類学ではおなじみのこの二項対立を超えた存在、あるいはその融合を指す言葉です。パンやワイン、そしてチーズなどをその例として挙げることができるでしょう。これらは発酵と加熱を組み合わせたものとして、私たちの文化を強力に象徴するものとなっています。
ロックダウンのなかで、時代はまさに予防一辺倒であったことが思い出されます。香水グループ大手でさえアルコール消毒剤を作っていた時期です。ですがまさにそのような時代状況によって家庭内では発酵が見事な復権を果たしていました。ロックダウンによって人々が自家製の酵母、昆布茶、酢などを家庭内で作る時間を取り戻すことができたことで、発酵食品は再び日常生活の舞台の前面へとおどり出てきたのでした。発酵食品は何よりも生命力に満ちています。ですがまさにそのような「生きたもの」を相手にしているだけに、発酵による製品はそのプロセスも含めて、見事な発酵食品が得られるか、それとも単に腐敗してしまい完全なる自然状態に帰してしまうか、というどちらに転ぶか分からないという根本的なリスクを抱えています。これに関しては(発酵によって得られる)ワインと、蒸留酒との関係を通して考えることもできるでしょう。蒸留は、製品の性質を固定し安定したものにする、ある種の浄化のプロセスとして位置づけることができます。こうして火にかけることによって生成される蒸留酒は、相反するふたつの要素を組み合わせることによって思いがけないものを錬成する、まさに錬金術の象徴と言えましょう。香水にもまた、この火と水という互いに対立するふたつの要素が刻印されています。香水は蒸留によって作られるアルコールの働きによって安定化される一方で、そのアルコールのなかに植物を漬けこみ香りを抽出する「浸漬」、そして一定期間寝かせる「熟成」、という言わば発酵的、水的プロセスも含まれているのですから。これらによって私は何が言いたいのかというと、つまり香水を作ることというのはまさに料理をすることに他ならないのではないか、ということなのです。

